- 文久元年の壱岐通年
幕末に藩の命で編まれた島の地誌が、島の名の由来から狼煙台の場所まで書き残しています。
- なぜ鯨伏というのか通年
鰐に追われた鯨が隠れ伏した土地だと風土記は書き、その岩は幕末まで路傍にありました。
- 門松を立てない家年の暮れ
天神の船が漂着した年の暮れ、支度が間に合わなかった家々の作法が幕末まで続いていました。
- 石を返せと迫った河童通年
淵の石を寺の橋にしたところ、奉行の家へ夜ごと苦情が来たと里は伝えていました。
- 腰かけてはいけない石通年
島の石には効き目が結びつけられ、撰者はその一つ一つを寸法まで測って書きました。
- 池を汲み干して雨を乞う梅雨
旱魃のたび島じゅうの人が池へ集まり、三日でも五日でも水を汲み上げ続けました。
- 藻焼鮑のつくりかた夏
幕末の八幡浦の名物は、分量まで書き残された鮑の焼き方でした。
- 神楽の名簿は一四三五年から冬
島の神職が海を渡って平戸で舞った記録と、舞い手二十五人の名が残っています。
- 延宝の査定が決めたこと通年
いまの式内社二十四座の並びは、江戸のはじめに一人の神学者が下した査定に由来します。
- 七つの郷と七つの社通年
式内社とは別に、島を七つに分けて七つの社が受け持つ枠組みが中世からありました。
- 島を治める人が入れ替わる通年
国造から守護へ、そして平戸へ。誰がこの島を預かるかは千数百年のあいだ移り変わりました。
- 瀬戸浦は古戦場である通年
弘安四年の戦いを記した漢文の記録と、目の前の地形とを、撰者は突き合わせて考えました。
- 弩は百あるが扱う者がいない通年
承和五年、壱岐は書記官を一人減らして弩の技術者を置いてほしいと大宰府へ願い出ました。
- 蒙古のあとに配られた七百町通年
弘安の役の勝利は諸社の祈りによるとされ、島の田七百町が神領として配分されました。
- 神輿が動きはじめた年通年
島の神幸は五社を除いて江戸期に始まっており、社ごとに始まった年が書き留められています。
- 鯨を取る八百五十八人冬
冬から春の田浦には八百人を超える人が入り、船と釜と役の名が数まで書き残されています。
- 石田野に旅寝したまま秋
新羅へ渡る使いの一人が壱岐で病死し、仲間の詠んだ挽歌が万葉集に九首残りました。
- 竜宮からもらった萩原年の暮れ
年の暮れごとに海へ松と年縄を供えた夫婦が竜宮へ招かれ、望んだ宝で長者になりました。
- 国府が置いた社通年
惣社・一ノ宮・二ノ宮という呼び名は、島を治める役所の都合から生まれた並びでした。
- 氏神と産土神はちがう通年
生まれた土地の神と、一族の祖先の神。もとは別の言葉でしたが、島ではとうに混ざっていました。
- 五十社をめぐる通年
式内か式外かで割れて巡拝までためらわれたころ、一人の祠官が五十社の一覧を作りました。
- 社を継ぐには京へ上る通年
江戸期の壱岐の神職は、国主の許しのほかに京都の吉田家の免許を要しました。旅費は島が出しました。
- 陰陽道に従う家が二十戸通年
金神を避け、暦を配り、祭を勤める陰陽師が島にいました。明治の改めで、その職が消えます。
- 山伏がひらいた三つの権現通年
彦山の末派として渡ってきた修験僧が三つの社を開き、明治の改めで身の置き所を失いました。
- 大神楽の日に起きたこと秋
十月十日、島じゅうの社家が集まる祭で争いから人が討たれ、二つの家が滅びたと社記は伝えます。
- 寺に配られた五十町通年
幕末の壱岐には仏閣が三百七十八所あり、寺に配られた田は永禄の帳面で五十町と記されていました。
- 同じ日に配られた末寺の名簿通年
延宝四年の九月十一日、国主は寺ごとに末寺の一覧を定めた証状を出しました。同じ文面が巻をまたいで残ります。
- 島の中の三十三所通年
唐津の一人が夢のお告げで観音を三十三体つくらせ、島の三十三の堂に配ったと伝えられています。
- 玉泉寺の三不思議通年
火事を消し、盗人を寺から出さず、売られた布を取り返す。十二神将の話が三つ書き留められています。
- 比丘尼がひらいた寺通年
勝本の能満寺は、博多から渡ってきた比丘尼が建てた寺で、二代で比丘尼が絶えたと寺記は書きます。
- 開かない扉と、崩れた橋通年
立石の覚音寺には行基から始まる縁起があり、撰者はその末尾の一句を、はなはだ非である、と退けます。
- 灯明坊から別当へ通年
勝本の神皇寺は、社の灯明を守る半俗の坊から始まり、二百年をかけて聖母宮の別当職になりました。
- 鷺と呼ばれた城通年
湯岳の城跡には呼び名が四つあり、そのうちの一つは、城に宿るという白鷺から来ています。
- 六人衆という道通年
湯岳の道ばたに残る塚の名は、六人が一度に討たれた夜の話から来ていると、村の老人が伝えていました。
- 塩津留の城と、姫の池通年
国分の「郡」と呼ぶ一画は城の跡で、屋敷の名も、入水した姫の池も、幕末まで地名として残っていました。
- 玉塚に碑が立つまで通年
深江の古墳を、この地誌の撰者は名も知れぬ塚から国史に載る女性の墓へと読み替え、そこに碑が立ちました。
- 筒城浜のにしき貝通年
城の跡を立てた項が、途中から浜の貝の名寄せに変わり、歌を四首書き写して終わります。
- 村の名の起こりを三つ通年
湯岳・深江・筒城の三つの村について、幕末の地誌はそれぞれ別のやり方で名の由来を説いています。
- 浦にも海の境があった通年
幕末の地誌は、浦ごとに戸数と船の数を数え、そのうえで沖のどこまでがその浦の海かを書いています。
- 豊浦が芦辺になるまで通年
潮の干満する洲を埋めて建った町が、四十年のあいだに六度焼け、そのたびに名を問い直されました。
- 町ごと移された浦通年
島でいちばん古い浦だったという本居からは、永禄の末に民家が移されました。
- 歌に残ったみるめの浦通年
都の歌人が繰り返し詠んだ浦では、幕末には名の由来になった海藻が採れなくなっていました。
- 十尋の海に潜る夏
渡良の小崎浦の海士は、夏のあいだ島じゅうの瀬をまわって鮑を採り、城下と長崎へ納めていました。
- 渡良の浦に着いたもの通年
渡良の海辺には、仏像と綿と落ち延びた人が海から着いたという記録が、三つ並んで残っています。
- 渡海の使いに配られた稲通年
律令は、海を渡る使いを送り届ける者へ、日ごとの食を稲で数えて割り当てていました。
- 宇治川へ出た馬の母通年
宇治川の先陣を争った名馬の一頭は、この島の屋敷で生まれたと里の人が伝えていました。
- 薬師丸の田をめぐる四通通年
池田村の一区画をめぐって、譲状と幕府の下知状が四通、幕末の地誌に写し取られています。
- 浦海で待っていた側通年
対馬から誘いの書状が届いた年、島は誘いに乗ったふりをして浜で待ち構えました。
- 壱岐の郡は大郡というべし通年
二つしかない郡を、律令の物差しで測り直すと、どちらも大郡になると撰者は書きます。
- 島の四方と、一里の長さ通年
島の広さを間と町と里で書いた同じ巻が、一里の長さは定まっていないとも書いています。
- 飢えた年に免じられたもの通年
施しと免税を集めた二つの項では、壱岐の名がほかの国の名と並んで書かれています。
- 天台から真言へかわった寺通年
国分村の阿弥陀寺は、天台宗から真言宗へ移りました。その移り目に立つ僧の名が、いくつも読めません。
- 韓櫃に納めた大般若経通年
国分村の観音禅寺には、四つの唐櫃に納めた大般若経がありました。撰者が見たときには、櫃ごとひどく傷んでいます。
- 魔風の吹く山に経を埋めた通年
国分村の経塚山には五つの塚があります。人を悩ます風がやまないので、僧が経を埋めたのだと伝えられていました。
- 池の中の島だったころ通年
国分村の中島は、池だったころの島の名です。宮が移ったあと、礎と田の名だけが残りました。
- 掘り出された神鏡通年
名だけが残って場所の分からなくなった社を、元禄のはじめに役人が里の人へ尋ね、二日掘って三日目に鏡が出ました。
- 棟木は、いま見えない通年
国分村の円福禅寺は飛騨の匠が建てたと伝えます。その証しだった棟木は、地誌が書かれたときにはもうありませんでした。
- 大寺のあとに足された、黄金の話通年
湯岳の定光寺はむかし大寺だったといいます。その巻の終わりに、撰者は平重盛と黄金をめぐる長い追加を足しました。
- 影向松と、もう一本の松通年
湯岳の客上宮には大きな松が二本ありました。撰者は寸法を測り、注連を引く習わしを書き、古い歌を一首そえています。
- 鈴の音が止むまで通年
立石の寺の開山は、棺に鈴を持って入り、その音が止んだ日を死んだ日と数えよと言い残しました。
- 立石と長嶺と目良は兄弟通年
立石村の屋敷跡の項には、村の名も、田の名も、幕の紋も、一つの家の来歴から説く長い説が写されています。
- 鳴滝に立つ三つの碑通年
初山の谷に落ちる滝のかたわらに、六、七尺の石が三つ立っていて、それぞれ別の文字が彫ってあります。
- 鳥に持ち上げられた男通年
物部村の岡の上の塚は、帯にはさんだ鳥が生き返って羽を伸ばした日のことから名が付いたと伝わります。
- 山鉾を作る三つの組通年
浦を三つに分け、隔年で思い思いの山鉾を作る仕組みが、寛延三年から幕末まで続いていました。
- 日本の神祇ではない神通年
黒崎の岡の松林の中に祠が一つあり、地誌はそれを、この国の神ではないとことわったうえで書き留めます。
- 犬島に埋めた金通年
半城の沖の小さな島には犬の墓があり、鳴いた犬を切り殺した長者の話から島の名が付いたと伝わります。
- 島でいちばんの石を切る通年
志原村の浦の岬には石工が集まって住み、この島で石を切る仕事はここから始まったと書かれています。
- 海から遠い滝に、塩が出る通年
志原村の大道のかたわらの滝には、海から三十町も離れているのに塩の味がする場所がありました。
- 姥子松の下にある墓通年
石田村の原に立つ松の下の墓は、都から連れて来られて取り残された女のものだと伝わります。
- 倒れた松が、次の夜に起きる通年
石田村の川ばたの大松は、伐ろうとすると子どもが枝に登り、倒れた翌夜には起き直ったと伝わります。
- 野の真ん中に船板が朽ちていた通年
可須村の引野には、むかし唐船が転覆した場所という伝えがあり、船底という名の田が残っていました。
- 七つの池を頂に持つ石通年
可須村の石の頂には七つの窪みがあり、雨にも旱にも水が増減しないと伝えられていました。
- 名の読みが訛っていく浦通年
黒崎村の小さな浦は、里の人がほうか浦と呼び、地誌はそれを訛りだと書き留めています。
- 矢櫃を埋めた地の石通年
渡良村の板のような石は、むかし矢櫃を埋めた地の名を、川と里にまで広げていきました。
- 沖の島の頂に築かれた壇通年
渡良村の沖の島には、朝鮮出兵の年に祈禱を行ったとみられる石積みが残っていました。
- 飢饉を祈った男の顛末通年
布気村の畠に残る塚は、飢饉を願った富者が教えのとおりに女を埋めた話とともに伝わります。
- 栄螺を取ろうとした姉通年
新庄村の塚は、妹に頼まれて栄螺を取ろうとした姉が水に引き込まれた話とともに伝わります。
- 蛇の妻が残した刀通年
武生水村の屋敷跡には、産屋をのぞいた男と、背に鱗のある子孫の話が伝わっていました。
- 井戸の名が、山の名になった通年
武生水村の江浦にある小さな井戸は、日照りにも長雨にも水の量が変わらないと書かれています。
- 螢が多いというだけの川通年
物部村の田のかたわらの小さな流れには、螢が多いというだけの理由で名が付いていました。
- 郡の名のもとになった十歩の田通年
石田村には、郡と村の名のもとになったという水田があり、その広さは十歩と書かれています。
- 堂の項に写された知行状通年
渡良村の阿弥陀堂の項は、堂の寸法のあとに、堂とは関わりのない知行状を三通写しています。
- 白い島で明日の天気を読む通年
本宮村の浦海の沖にある小さな島は、岩の色の変わり方で日和を占うのに使われていました。
- 人が作ったのではない石橋通年
新庄村の檜山の中には自然にできた石の橋があり、下は高い岸で、渡る人は稀だと書かれています。
- 万葉の歌を、この浜に置く通年
初山村の裏海の項には、古い歌が一首だけ、なぜここなのかの説明もなく書き添えられています。