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豊浦が芦辺になるまで
芦辺浦の項は、幕末の町の姿を数えることから始まります。浦戸が三百二十八烟、そのうち九烟が酒屋。人が一千三百九十一人。船が五十三艘で、八反以上が五艘、伝通が四十一艘、五反以上が七艘。町の広さは五町半あまり、八千六百九坪あまりです。
続いて、町のなかの小名が二十あまり並びます。安泊、波戸本、堂崎、須可岬、寺下、江の川町、田町、新町、東町、孫左衛門川、本町、札の辻町、樋の川、後田川、中町、西町、浜小路、山口町、宮の町、西川町、下脇町。このうち新町には、元文年中に水田を埋めて家居にした、という註が付いています。
なぜ地名の由来まで書けるのかというと、この町が新しいからです。浦人の伝えとして、撰者はこう書き留めました。むかしは西川から後田・安泊にかけてが、海水の干満する洲だった。のちに石垣を築き海辺を埋めて人が住むようになった。だから「須可岬」と呼ぶ、と。町の下は、もとは海です。
人が住みはじめた順序まで残っています。孫左衛門という者が深江村から移ってきて井戸を掘り、その水を使った。いまも「孫左衛門井」と呼ぶ。それから一族が次々に来て住みついた。これがこの土地の民家のはじまりである、というのです。町の小名に孫左衛門川があるのは、そのためでした。
この町は、たびたび焼けました。撰者は焼けた年を一つずつ書き並べています。寛永十二年(1635 年)九月二十五日、承応二年(1653 年)二月九日、寛文四年(1664 年)三月三日、同十年(1670 年)十二月十一日の夜、同十一年(1671 年)二月上旬、同十三年(1673 年)二月。四十年たらずのあいだに六度です。そして、だから豊浦の名を改めて芦辺と号したのだ、と結びます。
改名の経緯は『壱岐廻』を引いた一段に出てきます。藩主が深江村の御茶屋に滞在していたとき、二月二日にこの浦で火事があり、豊浦を改めて芦辺とせよという命が出た、とあります。撰者はその年を寛文元年と書いたうえで、それは十一年の誤りだろうと自分で註を入れています。
もとの「豊」がどこから来たかにも説があります。浦人の説では、長門国の長府に豊村があり、そこから神を移してきた者の縁で、豊浦宮の「豊」の字を取って浦の名にしたといいます。長門から来た名が、火事のあとに芦辺へ置き換わった。芦辺という地名は、その二度の書き換えの結果として残っています。原典は、芦辺という字を選んだ理由までは書いていません。
原文から
むかしは西川より後田・安泊に至り、海水の干満する洲なり。中葉、石垣を築き海浜を埋みて民居とす。ゆえに称して「須可岬」という。
時に孫左衛門という者、深江村より今の陰陽家の居所に来たり住み、井泉を掘りて用水とす。今俗に呼びて「孫左衛門井」という。これより後、かの一族が次第に来たり住む。これ当所 民家のはじめなり。
寛永十二年乙亥 九月二十五日、承応二年癸巳 二月九日、寛文四年甲辰 三月三日、同十年庚戌 十二月十一日夜、同十一年辛亥 二月上旬、同十三年癸丑 二月と、かく打ち続きて当浦が焼失す。ゆえに豊浦の名を改めて「芦辺」と号すとぞ。
豊浦宮の「豊」の字をとりて浦の名とせり。