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このページの更新 10/16 16:05

町ごと移された浦

島でいちばん古い浦だったという本居からは、永禄の末に民家が移されました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

幕末の武生水村には、本居という浦がありました。浜の長さが一百八十間、浦居の長さが一百四十間、民戸が五十六烟、人が二百七十八人。そう大きくはありません。ところが撰者はこの浦を、島の浦のはじまりとして扱っています。

根拠は朝鮮側の記録です。『海東諸国記』に「毛都伊浦」は戸が一百と載っている。撰者はそこから、本居こそ浦居の最初だろうと書き、続けてこう言います。しかし中世以来は江の浦の支浦になってしまった。時勢が変われば地理もまた移り変わるものだ、と。里の古老も、このあたりに浦は多いけれども、はじまりはこの浦だと伝えていました。

支浦になった理由を、原典は書いていません。書いてあるのは、この浦から人が移されたという別のできごとのほうです。永禄の末、日高甲斐守源喜が亀尾の城にいたころ、江浦の干潟を埋め立てて、本居の民戸をそちらへ移して住まわせた。のちに松浦豊後守信実がここに住んだ年には、東の潟にも石垣を築き、川北村に属していた下町の民戸を八烟移しています。支浦になったのが「中世以来」で、移転は永禄の末ですから、原典の書き方では前後関係も因果も決められません。

移された先には新しい町の名が付きました。築町、あるいは新町。撰者が書いた時点で十四軒です。もとの下町と呼ぶあたりは四十余烟になっていました。江浦・築出町・迎町・亀川町・本町・下町という小名が、その順に生まれた町並みの名です。

それでも本居は、年に二度だけ島の中心に戻りました。毎年四月八日、島じゅうの村から男女が、島々からは漁の者が、老いも若きも集まってくる。店の品はもちろん、山の産物も海の産物も、竹や木の細工物までが持ち寄られて交換される。撰者はこれを、この国で第一の大きな市だと書いています。同じ月の二十八日にも、同じ規模の市が立ちました。

江の浦という名の由来にも説が二つ並びます。神功皇后の帰りの船が大風で散り、その一艘が流れ着いたので「こうの浦」といった、という伝えと、村の海辺のとりわけ入り込んだ地形から「江の浦」と呼んだのだろうという撰者の見方です。撰者は後者を採り、近くに江上や江見という地名があることを傍証に挙げました。

同じ巻の郷ノ浦の項には、伝通三十六艘に「本居浦ともいう」という註が付いています。幕末の時点でも、二つの名は場面によって同じ浦を指していました。浦の格が上下したのも、町が移ったのも、市が立ったのも、みな同じ入り江のできごとです。地誌が支浦として小さく扱った本居の項が、そのいきさつをいちばん詳しく残しています。

原文から

かく「本居」ぞ、浦居の最初なるべし。しかるに中世以来 江の浦の支浦となれり。時運がかわりぬれば、地理もまた変転するものなり。

巻之十三 武生水村之部(本居浦・浦居の最初)

里老いう、部中に浦居が多しといえども、当浦を以てはじめとす。

巻之十三 武生水村之部(本居浦・里老の伝え)

永禄の末、日高甲斐守 源喜が亀尾の城に居れし時に、江浦の潟を築き上げ、本居の民戸をうつして住しむ。

巻之十三 武生水村之部(本居浦・町の移り)

さてこの浦に毎歳四月八日、国中の村々の人民男女、島々の漁人が老若ともに集りて、商家・店屋の諸品はさらなり、所々の山海の産物、思い思いに竹木の細工物の有无を交易して、それにきわい当州第一の大市をなせり。

巻之十三 武生水村之部(本居浦・四月八日の市)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之十三 武生水村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

この話に出てくる場所

出典: 各スポットのページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 10/16 16:05

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