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歌に残ったみるめの浦
可須村の海松目浦は、櫛山と小櫛山にはさまれた西向きの浦です。浦の長さは九町五十間。この項には、都で詠まれた和歌が十一首も書き写されています。
名の由来について、撰者は二つを並べます。たぐいまれな景色の地だから「見る目の浦」の意ではないか、というのが一つ。もう一つは浦人の言い分で、「みるめ」とは鬼の住んだ所のことだから、という説です。地誌はどちらかに決めず、両方を書き留めています。
ところが歌書のほうは「海松目浦」と書きます。海松も和布も海藻の名です。撰者はここで手が止まりました。その字なら海藻の名産地というべきなのに、いまは生えないという。風波で地形が変わってしまったのだろうか、と書いて疑問のまま置いています。名は残ったのに、名のもとになった産物のほうが消えていたのです。
引かれているのは、『古今集』『懐中集』『新後撰集』『新続古今集』からの九首と、送別の二首です。潮が引くわずかな時間を逢瀬にたとえた歌があり、「みるめなき」を「逢う機会がない」と掛けた歌があります。みるめの浦は、逢う機会という言葉と重ねて使う歌枕でした。
歌のなかには壱岐と縁のある土地の名が出てきます。撰者はそこにも註を入れました。歌に詠み合わされる「またら島」は肥前の上松浦にあって、この浦から向かい合う位置ではない。だから遠くに望む景色とは言いがたい、君子の議論を待つばかりだ、と。都で作られた歌の地理と、目の前の海の地理が合わないことを、はっきり書いています。
この浦の歌がいちばん人らしくなるのは、末尾の二首です。壱岐へ帰る友を送るときに詠んだ歌と、その返しにあたる歌が並んでいます。約束しておいて、また会うことになるみるめの浦の波よ、隔てられても友を忘れるな。都から見れば、みるめの浦は逢瀬の比喩でした。壱岐から見れば、そこは友が帰っていく先の名でした。
浦のいちばん後ろには、古い関があったという説が付いています。異賊の襲来があって二か所の関と十四か所の要害を置いたとき、その一つが可須の見目関だった、という『壱岐史拾遺附録』の記述です。撰者はこれについても、是非のほどは分からない、なお考えるべきだ、とだけ書きました。この浦について地誌が確かだと言い切っているのは、地形の寸法と、歌の本文だけです。
原文から
たぐいすくなき佳景の地である。ゆえに「見る目の浦」の意であろうか。浦人が「みるめ」というのは鬼の住んだ所である、ゆえにこの名があるという。
歌書に「海松目浦」と書けり。そうであれば海松・和布の名産の出る所ともいうべきであるが、いまは生じないよし。もし風波によって土地が変易したのであろうか、いぶかしい。
いま地理を見るに、またら嶋は肥前の上松浦にあって、向かい相対する所ではないから、遠望の景勝とはいいがたい。君子の弁論を待つのみ。
契り置きてまたもみるめの浦の波 立ち隔つとも友なわすれそ