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渡良の浦に着いたもの
渡良村の海岸には、小さな浦が並んでいます。地誌はその一つ一つに項を立てますが、書かれている中身は寸法と向きだけということも珍しくありません。そのなかに、海から何かが着いたという記録を持つ浦が三つ続きます。
一つめは釈迦浦です。『見好書』を引いた一段に、こう書かれています。一条天皇の御代、永延元年(987 年)、嵯峨の釈迦牟尼仏が宋から日本へ渡ってくるとき、この浦に着岸した。島じゅうの男女がはじめて釈迦の像を拝み、みな深く敬う心を起こして、身分の上下を問わず群れ集まった。像が浦にとどまったのは十八日。それ以来この地を釈迦浦と呼ぶ、というのです。
『見好書』の筆はそこで止まりません。この旧跡に信心の篤い施主が堂を建てて釈迦を崇めるなら、その功徳は須弥山のように高く、四つの大海に等しいだろう。どうかそういう施主が現れてほしい、と結んでいます。地誌が写したのは、地名の由来であると同時に、堂を建ててほしいという願い出でもありました。
二つめは本綿浦です。『続風土記』を引いてこう書きます。むかし田頭という所に千戸あったころ、大藤十良左衛門という長者が大小の船を何艘も造り、日本はもちろん中国とも商いをした。そのとき、はじめて中国から綿を調えて持ち帰ったのがこの浦である。だからその地を綿浦と名づけ、船が着いた津のほうを本綿浦と呼ぶ、と。着いたのは仏でも人でもなく、荷でした。
三つめは水浦です。釈迦浦の項の末尾に短く付けられています。むかし奥州のくりや川の城が落ちたとき、下条の遠祖が国を逃れて漂い着いた地だと言い伝える、というだけの一文です。名の由来は書かれていません。伝えられているのは、誰かが流れ着いたということだけです。
三つのうち、着いたものが名の由来として説明されているのは釈迦浦と本綿浦の二つです。水浦については、名の由来を原典が書いていません。浦の口が細いから口細浦、麦がよく穫れるから麦屋浦という付き方も同じ地誌のなかにありますが、この二つはそれと違って、外から来たものの名で呼ばれています。
同じ渡良村の項には、舟を田代浦まで引き越したことから名が付いたという舩越浦も並んでいます。壱岐の浦の名は、海と陸のあいだで何が動いたかの記録でもありました。
原文から
これは人皇六十六代 一条院の御宇 永延元年丁亥歳、嵯峨の釈迦牟尼仏が宋朝より本朝に渡り給う時、この浦に着岸し、一島の男女がはじめて本師 釈迦文仏を拝し奉り、ことごとく渇仰の思いを生じて貴賤が群をなす。
浦にある間 十八日、爾しより以来、この地を「釈迦浦」という。
むかし田頭という所に千戸ありし時、大藤十良左衛門という長者が大小の舩を数艘作りて、日本はもちろん、支那までも商買する時、はじめて支那より綿を調え来しはこの浦なり。ゆえにその地を名づけて「綿浦」という。
むかし奥州のくりや川の城が落ちし時、下条の遠祖国をさけて漂来せし地なりといい伝えり