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宇治川へ出た馬の母
黒崎村の巻に「須美山」という短い項があります。「隅山」とも書き、俗に「隅屋敷」と呼びました。『続風土記』を引いて四方の境を記すところによれば、西は岩川に限って四十一間、北は長藤に限って四十間半、周囲は一百三十五間半。北に岸があって南は平地です。それだけの場所なのに、この項には島の外まで名の知られた馬の話が付いています。
里の人がこう伝えていた、と地誌は書きます。むかし源頼朝の時代、この屋敷に牝馬がいた。いまの牧という野に放しておいたところ、牡馬がいないのに孕んで、黒い馬を生んだ。だから「純墨毛」と名づける。これは竜が交わって生ませたのだ。そこで母馬のほうを「竜化」と呼ぶ、と。
生まれた馬は育って駿馬になり、国司がこれを頼朝へ献じました。頼朝はほめて「するすみ」と名づけます。義仲を討つとき梶原景時に与えられ、佐々木高綱と並んで宇治川へ向かった、あの馬です。地誌はここで馬の側に立ちます。急流を渡っても撓まず、先陣の誉れを取るべき馬であった。高綱に後れたのは馬が進まなかったからではない、景時の落ち度である、と。名馬の負けを、乗り手の責めに振り替える書き方です。
話は伝説で終わりません。母馬が斃れた場所には、いまも供物が供えられている、と続きます。その田を作る者が代々これを司る。毎年、田植のころに竹を十二本、まわりに立てて田の中へ埋め、石を集めて塚とした。母馬の墓は竜化橋という小さな石橋のそばの田の中にある、とも記されます。竜と交わったという言い伝えの下に、田を耕す家が引き継いできた年ごとの手間が残っていました。
地誌はさらに、同じ話の別の書き方を三つ並べます。『壱岐巡』は小牧村に「すみ」という所があるとし、いまは友三郎という百姓が住んでいると土地の主まで書き添えます。同じ書は、この村の牧に「千疋草」という草があって、斃れた馬を牧田に埋め、その草を牝馬が食べて孕めば必ず名馬を生む、とも伝えました。『古蹟考』はもっと素っ気なく、里の老人は竜が来て交わったのだというが、それはあやしいことではないか、と疑いを書き入れています。撰者は疑いのほうも消さずに、そのまま並べました。
生まれた駒の名は逸してしまった、と『古蹟考』は書きます。宇治川で名を残したのは子のほうで、この項が名を残したのは母のほうでした。
原文から
むかし源頼朝卿の時、この屋敷に牝馬がいた。いまの牧という野に置いたところ、牡馬なくして孕み、驪馬を生んだ。
急流を渡っても撓まず、先登して誉れをあげるべき馬である。高綱に後れたのは、馬の進まないのではない。景時の不覚である。
毎年田植の時、竹十二本を巡りに立て、これを田の中に埋め、石を集めて塚となした。
黒崎の須美里に馬があった。同じ里の牧に放し置いた所、父馬なくして孕んだ。里の老人は竜が来て交合したのだという。これはあやしいことではないか。