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薬師丸の田をめぐる四通
池田村の巻に「薬師丸」という項があります。西触に属する一区画で、いまの地図では探しにくい古い呼び名です。この項は、風景も伝説もほとんど書きません。代わりに文書を四通、そのまま写しています。中世の壱岐で、島の土地が誰のものかを言い争った紙です。
はじめに『宗像軍記』が引かれます。筑前の宗像大宮司の領地として、壱岐島の薬師丸に水田二十町があった、というだけの一行です。海を隔てた社家が、この島の田を持っていました。
次が譲状です。仮名書きの原文を、地誌は現代の読みに直して載せています。書いたのは明阿弥陀仏という尼で、代々受け継いできた所領を譲る、と述べます。理由がはっきり書かれています。自分に実の子がないので、くさのの苔尼御前と親子の契りを結んだ。長いあいだ養ってもらった恩が浅くないうえ、死んだあと弔ってもらうためである、と。ただし池田の屋敷と池田の田五段だけは、先に長志の修行殿から苔御前へ渡してあるので除く。そこまで書き分けたうえで、残りはすべて苔尼御前が領知せよ、と結びます。建徳二年(1371 年)四月十二日の日付があります。
この譲状には、ふつうなら付いているはずの前書きが欠けていました。地誌はその理由まで写しています。もとの証文は去年の八月二十六日の夜に、勘当のいきちがいで取り上げられてしまった。だからこの手継の譲り状のほうを本証文として領知せよ、と。紙を失った人が、失ったことを書き残して次の紙に代えたわけです。
残る二通は、幕府の側から出た下知状です。至徳二年(1385 年)五月六日、宗像大宮司の氏頼が申し立てた壱岐国 薬師丸の地頭職について、何度も命じているのに浜田安芸守が押妨と狼籍に及んでいる、まことによろしくない、と今川の名で書かれ、志佐壱岐守に宛てられました。使節が妨げるなら法に任せて沙汰を付けよ、下地は氏頼の代官へ渡せ、という指図です。
ところが七年後、明徳三年(1392 年)十二月十五日に、ほとんど同じ文がまた出ます。宛先も志佐壱岐守のままです。申し立てる大宮司の名は氏頼から氏重に替わりました。度々の成敗にもかかわらず、なおもって事が行かない、と書かれています。命令が二度くり返されたということは、一度目が効かなかったということです。
地誌はこの四通を並べるだけで、どちらに理があるとも書きません。島の一区画をめぐって、筑前の社家と、島に居る武士と、九州を差配する幕府の役人が、二十年にわたって同じことを言い合っていた。それが読み取れるだけの紙が、池田村の巻に残されています。
原文から
宗像大宮司の領地、壱岐島において薬師丸の水田二十町と云々。
しかるに尼に実子なきによって、くさのの苔尼御前と親子の契りをなすによって、年ごろ養育の事が浅からざるうえ、かつは後生を弔われたてまつらんがため、譲り与うる所 実なり。
本状文らにおいては、去年八月二十六日の夜、勘当に錯り取られおわんぬ。しかれば、いさの手継の譲り状をもって本証文として領知せしむべし。
壱岐国 薬師丸 地頭職の事、数ヶ度 仰せらるる処、浜田安芸守が押妨・狼籍に及ぶ云々。大いにしかるべからず。