このページの更新 10/16 16:05
浦海で待っていた側
本宮村の巻の「浦海山」は、村の未の方角の海辺にある山です。項の書き出しは一行だけで、古老の伝えとして、浦海にはむかし千軒の家が並んでいたと記します。そのあとに続くのが、この山の名を島の記憶に残した一件です。
元亀二年(1571 年)六月、対馬の国主から、島の武士である立石図書のもとへ書状が届きました。波多の後室が日高に恨みを持っているので加勢を頼まれた。来月の順風を待ってそちらへ渡り、日高を退治する。そのときは味方せよ。事が成れば賞は薄くしない。そう書いてありました。
図書はその書状を、そのまま日高信助のところへ持って行きます。信助は喜んで、それならこちらから対馬を謀ってみようと言いました。返事は、立石の一族のなかに内々で日高を恨む者がいるかのように装って書かれます。来月の順風のころ、本宮の浦海のあたりへ出て待て。そちらの船の帆影が見えたら在家に火を放つ。それを合図に着岸し、まず矛を交えて日高を追い払え、と。対馬側はこれを読んで安心し、時を待ちました。
七月二日、対馬の兵船およそ六十艘が順風に乗って帆影を見せます。島はすぐに本宮の在家を焼き立てました。約束どおりの合図です。焼けた家は、味方が味方の家に火を付けたものでした。煙を見た国じゅうの武士一千二百余人が布気と浦海のあたりへ駆け集まり、要所に伏兵を置きます。
対馬勢は謀られたと知らないまま、黒か島から竜王崎まで十町ばかりのあいだ、船を纜でつなぎ合わせて岸へ渡り、銀台という所まで攻め上りました。そこを引き受けて、小浦海のほうから伏兵が突き出し、前後左右から一時に打ちかかります。対馬勢は散々に打ち破られ、船へ取り乗って上松浦へ走りました。地誌は討ち取った人数を三千余と書き、竜王岬に穴を三つ掘って、船に乗れずに死んだ者を埋め、そこを「千人塚」と名づけたと記します。七、八十年前までは浜石のあいだから骨がほのかに見えたが、いまは波が洗って残っていない、とも。
この戦いには、後味の悪い挿話が付いています。池田の山伏で強力の者が、逃げる対馬勢を追って数人を討ち取り、引き返してくるところを、味方の兵が誤って討ってしまいました。そのため山伏の霊がひどく祟る。人々は霊をなだめるために「国主の塚」と呼んだ、いまも海辺の畑の中にある、と書かれます。勝った側の記録に、味方に討たれた者の塚が残りました。
項の末尾に、撰者が年を数えた一行があります。元亀二年から、いま嘉永七年(1854 年)に至って二百八十五年である、と。撰者が数えたとおりに写します。この待ち伏せは、村の山の名の下に書き留められました。
原文から
古老が伝えていう、浦海にむかし千軒の民居があったと。
来月順風の刻、本宮の浦海のあたりに出て待て。その方の船の帆影を見れば在家を焼き立てよう。それを合図に着岸あるべし。
竜王岬に穴を三つ掘って、また船に乗り得ずして死んだ者を埋め、名づけて「千人塚」という。
ゆえにかの山伏の霊がはなはだ祟りをなす。時の人がその霊をなだめんがため、「国主の塚」と称する。