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島の四方と、一里の長さ
第一巻の「郷村の説」には、島の輪郭を四方から押さえた一段があります。東は筒城の権現崎に限る。そこの白い浜の砂は雪と見まがうほどで、名所を短い筆では尽くせない。西は渡良の鳥屋野の迫門に限り、晴れて霞のない日には遠くの高麗まで見え、見たことのない大清までが思いやられる。南は初山の銀鼻に限って野原が広い。北は山野が連なって草木が茂り、人の住まいがことに栄えて、勝本の小樹山の端に限る。四つの端をそれぞれ景色ごと書き留めた、地誌らしい書き方です。
そのすぐ後に、同じ島が数字で置き直されます。東西は三里二十町六間、南北は四里十二町五十八間五尺。周囲は浦続きの海路で十六里十五町四十二間余、海辺づたいなら三十八里二十七町十三間。国の東北を壱岐郡といい、西南を石田郡という。景色の描写と実測の数字が、一段のあいだで並んでいます。
ところが、この数字を読むには一つ用心が要ります。同じ第一巻の「郡里の事」に、里の長さそのものの話が入っているからです。『雑令』は、地を測るのに五尺を一歩、三百歩を一里とすると定めていました。それとは別に、正親町院の天正年間に一里の道のりが定められた話が『世事談』から引かれます。地の三十六禽になぞらえて、三十六町を一里とする、というものです。
その定めには余談が付いています。諸国に一里塚を築かせるとき、目印には松や杉を植えるべきかと信長にうかがったところ、ほかの木を植えよ、との答えだった。かしこまって榎を植えた。「余の木」と「榎の木」の聞き違いだったと言い伝える、と。街道の榎の由来として知られる話が、島の地誌の郡と里の項に収まっています。
そのうえで撰者は、それ以前を書きます。上古の一里には決まった法がない。一町でも五町でも、里から里までを一里と呼ぶ、それが「一里」という言葉の意味なのだ、と。ただしおおむね六町であった、とも付け加えます。一歩六尺、一反六間、一町六十間、一里六百間として、その坪数を六々に伸ばすといまの三十六町になる、という説き方です。奥州にはいまも所によって六町一里の場所があり、鎌倉の七里ヶ浜が四十二町あるのも六町一里の割だ、と例まで挙げています。
ものさしが揺れていた証拠は、外国の書からも引かれます。『海東諸国記』は、道のりに日本の里数を用いるとしたうえで、その一里は我が国の十里に准ずる、と書いていました。同じ「一里」という語が、書く人によって別の長さを指していたことになります。
だから、この地誌が島の大きさとして書いた三里や四里が、いま何キロにあたるかは、この本の中だけでは決まりません。撰者は測って書き、同じ巻でその単位が定まっていないことも書いた。読む側に残されているのは、数字と、その数字を疑うための材料の両方です。
原文から
東は筒城の権現崎に限り、雪と見まがう白妙の浜の真砂の数の多い名所は、短い筆に尽くしがたい。
東西三里二十町六間、南北四里十二町五十八間五尺、周囲は浦続きの海路で十六里十五町四十二間余、海辺は三十八里二十七町十三間である。
上古の一里は法が定まっていない。一町でも五町でも、里から里までを一里という。
地の三十六禽を表して、三十六町を一里とする。