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天台から真言へかわった寺
国分村の西触に、称名山阿弥陀寺があります。幕末の地誌はこの寺を、本尊の釈迦坐像から書きおこします。脇士の日光と月光、恵心僧都の作という阿弥陀の古立像、十二神と十六羅漢の像。堂と境内と山林の間数を測り、寺産は十石と記し、そのうえで開基を長徳三年(997 年)十月十五日、恵心僧都によるものだと書きます。もとの寺領は三十六町八反であったという一文も添えられています。
そのあとに置かれた『続風土記』からの引きが、この項でいちばん目を引きます。寺の宗が変わっていったことを、短い文で並べているからです。むかしは天台宗であった。天台七代の大慶大法師は建保六年(1218 年)十月三日に寂し、そのとき七十七歳であった。その後 真言宗になり、真言の開山は道弘法印である、と。一つの寺の名の下で、教えの系統が入れ替わっています。
道弘についても、読める文がいくつか続きます。跡に大杉があり、その下を「道弘山」と呼ぶこと。応徳三年(1086 年)に入寺したこと。ただし、その入定を記した一文には読み取れない字が残っているため、そのままは扱えません。いつ入定したのかは、ここでは書きません。
次に置かれた真言九代の僧の一文も、名の字が読めません。読めるのは、その人が住職十四年で五十六歳であったこと、そしてこの後 十九年ほど世代が知れないという一文だけです。そのあとに続く二文にも読み取れない字が残っていて、真言のつぎに何があったのかは読めません。教えの系統が動いたことは分かるのに、動かした人の名がそのつど欠けている、という形になっています。
寺はやがて廃れました。中世に廃壊し、「釈迦堂」という名ばかりが残って仏がなかった、と撰者は書きます。それでも古い像はいくつか残りました。薬師堂の左に十二夜叉大将、右に十六羅漢。十六羅漢のほうは、むかし山門があったころ、その楼上の本尊であったといいます。山門そのものは、地誌が書かれたときにはもうありません。撰者はどちらの像にも、ことのほか傷んだ古像である、と書き添えました。
なお、この項には機械で読み取れなかった文字が当方の写しに四文ぶん残っています。判読できた文だけを引用し、読めない文は本文でも扱っていません。落ちたのは、真言九代の僧の名と、道弘の入定を記した一文と、真言のあとに続く二文です。
原文から
この寺はむかしは天台宗である。天台七代の大慶大法師は建保六年十月三日に寂した。時に七十七歳。その後 真言宗になる。真言の開山は道弘法印である。
その跡に大杉がある。その下を「道弘山」という。この僧は応徳三年に入寺。
住職十四年、五十六歳。この後十九年ほど世代が知れない。
また薬師堂の左の方に十二夜叉大将あり。ことのほか傷みて古像なり。右の方に十六羅漢あり。これはむかし山門ありし時、山門の楼上の本尊なり。