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魔風の吹く山に経を埋めた
西原の大路から南へ二十八間のところに、経塚山という小さな山があります。幕末の地誌はこの山を、まず寸法から書きます。東西二十九間、南北一町あまり。むかしは細い竹が繁って通り道もなかったが、いまは椿の山になっている、と。荒れ地が椿に覆われるまでのあいだに、それだけの時間が流れたことになります。
山の中には塚が五つありました。撰者はその五つを、一つずつ測って並べます。東西二間ばかりで南北二間半ばかりのもの。東西一間半で南北二間のもの。四方四間ばかりのもの。東西三間半で南北一間半のもの。そのほかに、三間に二間ばかりの塚がもう一つ。塚どうしは三十二間ほどずつ離れていた、とも書かれています。
ここまでは測量の記録です。そのあとに、里の伝えが置かれます。この所はむかし、鬼を退治したときに焼き捨てた場所であった。その後、魔の風が吹いて人を悩ませた。だからここへ入ることを人は恐れた、と。地誌が書きとめているのは、山に近づかなくなった理由のほうです。
伝えはさらに続きます。そこで一人の僧が、千部の経を修めて土の中に納め、その上にしるしの塚を築いた、といいならわしている、と。塚が五つあることと、経を埋めたという言い伝えとが、こうして結びつけられています。撰者は最後に括弧をひらいて、いまも海石が多くある、と書き添えました。塚の上に石が置かれていたことが、この一文から分かります。
五つの塚がいつ築かれたものかを、この項は述べていません。鬼退治がいつのことなのか、僧が誰であったのかも書かれていません。分かるのは、幕末の里の人が、この山を「経を埋めた場所」として説明していたということだけです。塚を測った寸法と、恐れられた理由と、その恐れをおさめた方法が、一つの短い項に並んでいます。
なお、この項には機械で読み取れなかった文字が一つもありません。落とした文はなく、上に写した文はすべて当方の写しにそのまま残っているものです。
原文から
この山は東西 二十九間、南北 一町余、むかしは小竹が繁りて通路もなし。いまは海石榴山となれり。
山中に経塚とて五つあり(各 相去ること三十二間ばかり)。
伝えいう、この所はむかし鬼退治の時、焼き捨てし所也とぞ。その後 魔風が吹きて人をなやます。ゆえにこの山に入ることを恐る。
かれ、僧ありて千部の経を修行して土中に納め、その上にしるしの塚を築くとなんいいける(いまに海石多くあり)。