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池の中の島だったころ
国分村の本村に、中島という所があります。村の中ほどから少し北です。幕末の地誌は、この名の由来を里の伝えから説きます。ここはむかし池だったころの、その池の中の島である。だから中島という、と。名だけが水の記憶を残していることになります。
伝えはもう一つ続きます。むかし天満宮がこの地に鎮座していた、と。撰者は島の広さを東西四十一間一尺、南北一百間あまりと測り、そのうえで島の中に宝殿の旧蹟だという櫓山があることを書きます。東西五間四尺、南北六間一尺五寸。その周りには礎が十七あり、そのうち二つ三つはまだ残っている。むかしの御社の材木などが埋まったものだろう、というのが撰者の見立てです。
この項のおもしろいところは、跡の探し方が地面だけで終わらないことです。中島の北の左右に「東門松」「西門松」という名の田がある、と撰者は書きます。その田の土の中には、いまも材木があるという。田の名が門の位置を伝え、土の中の材木がそれを裏づける、という書きぶりになっています。
跡はほかにもありました。旧社地から北へ六十九間のところに松山があり、その中に御供殿の旧地だという石垣が残っています。東西五間、南北四間。古社地から南へ一百十五間のところには「馬場」という名の所があります。宮そのものは無くても、宮のまわりに要るものの名が、地面に散らばって残っていました。
項の結びは、いまの姿を書いて終わります。この中島には瓦師がいる。まわりの、むかし池だったという所はすべて水田になって、宮居の跡はたいそう古びてしまった、と。池が田になり、宮が去り、瓦を焼く家が建っています。撰者が測った礎の十七という数だけが、そこに何があったかを言い続けています。
なお、この項には機械で読み取れなかった文字が一つもありません。落とした文はなく、上に写した文はすべて当方の写しにそのまま残っているものです。
原文から
伝えいう、この所は池なりし時の中島なり。ゆえに名とす。むかし天満宮がこの地に鎮坐せりと
その島の中に宝殿の旧蹟とて、東西 五間四尺、南北 六間一尺五寸の櫓山あり。その周りに礎 十七、その中に二つ三つ 尚 存す。むかしの御社の材木などが埋まりしものなるべし。
この中島の北の左右に「東門松」「西門松」という田あり。その田の土中に、いまも材木ありという。
いまこの中島には瓦師あり。廻りのむかし池なりしという所は、すべて水田となりて、宮居の跡はいともの古りたり。