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掘り出された神鏡
湯岳村の川上大明神は、寺の境内にある社です。幕末の地誌は三文で位置と性格を書きます。境内にある。この寺の鎮守である。祭神は豊玉媛神である、と。勧請の年数は分からない、小社がある、とも続きます。ここまでは、どの小さな社の項にもある書き方です。
変わるのは、そのあとに『神社要覧』からの引きが置かれてからです。この引きが伝えるのは、社が一度この世から消えかけた話でした。中ほどの世に神殿が壊れて跡形もなくなり、名だけが残っていた、という一文があるのですが、当方の写しではここに読み取れない字があり、そのままは扱えません。壊れた経緯については、ここでは書きません。
続く文からは、まとまって読めます。元禄のはじめ、国主 源鎮信の家令に長村三左衛門という者がありました。この人が里の人たちに問います。川上の社はあるのか、無いのか。人々はみな、知らない、と答えました。名は帳面に残っているのに、場所を言える者が一人もいない、という状態です。
そこへ一人が進み出ます。興村に川上という所がある。もしやそれではないか、と。地名だけを手がかりにした答えです。長村三左衛門は里の人に、そこを掘らせました。二日掘って、出てきたのは土器ばかりでした。三日目になって、榎の下から神鏡が出ます。三左衛門はそこに神殿を建て、その鏡を安置させました。大宮司は吉野主計頭正勝であった、と名まで記されています。
引きの結びは短い二文です。肥前の一宮と同じ神であるとは尊いことだ。長村氏は信ずべき人である、と。書いた人は、鏡が出たことよりも、名を頼りに掘らせた役人のほうを褒めています。地名と、榎の木と、二日ぶんの空振りとが、この社の由来のすべてです。
なお、この項には機械で読み取れなかった文字が当方の写しに二文ぶん残っています。判読できた文だけを引用し、読めない文は本文でも扱っていません。落ちたのは、社名の仮名を写した一文と、神殿が壊れた経緯を述べた一文です。
原文から
在境内。当寺の鎮守である。祭神は豊玉媛神。
元禄のはじめ、国主 源鎮信の家令 長村三左衛門という者があった。衆民に「川上の社はありやいなや」と問うた。衆民はみな「知らず」と答えた。
ゆえに長村三左衛門は衆民をして掘らせること二日、土器のみがあった。三日に至って神鏡を榎の下に得た。すなわち神殿を造立してその神鏡を安鎮させた。
尊いかな肥前の一宮と同体の神。信ずべきかな長村氏云々。