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大寺のあとに足された、黄金の話
湯岳村の湯激山定光禅寺は、聖観音を本尊とする寺です。幕末の地誌は脇士の不動と多門の立像を挙げ、いずれも行基菩薩の作であって、島じゅうの七堂七体の一つであるという、と書きます。客殿の本尊は宝冠の釈迦如来坐像で、脇士は文殊と普賢。誰が建て、誰が開いたかを述べた一文もあるのですが、当方の写しではそこに読み取れない字が残っていて、そのままは扱えません。
読めるのは、この寺が痩せていった経過のほうです。むかしは大寺であったという。寺領一町と『永禄田帳』に記す所である、と撰者は書きます。そのあとが具体的です。元和三年(1617 年)に十石の国印状があるけれども、その後 減って、寛永二年(1625 年)以来 五石となった、と。一町の寺領が十石になり、十石が五石になっています。
この巻の終わりには「追加」と題した項が置かれています。題そのものに、定光寺の条に合わせて見るべきである、と断ってあります。ところが中身は寺の話ではありません。『武家俗説弁』という書から引いた、平重盛が中国へ黄金を渡したという説をめぐる長い議論です。この二つをどう結び付けるかは、題に書かれた一言のほかに手がかりがありません。
引きの前半には読み取れない字が多く、話の筋を通して追うことができません。読めるのは断片です。千両の金は時の天子へ献ずべしと言い、別に金百両を与えて異国へ帰した、という一節。そして、しかしながら仏法を信じた事は正史に見えない、という一文。書き手は、この人が仏へ帰依していたという前提そのものを疑っています。
疑いの根拠として置かれているのが、医者の話です。折よく異国の名医が日本に来て住んでいたので、父の入道はこの医者に薬を出させようと勧めた。しかし重盛はこれを用いなかった、と。自国に名医がいないと知られては困る、という理屈からです。そこまで異国を避けた人が、菩提のために海の向こうへ黄金を送るだろうか、というのが書き手の問いでした。
結びで、書き手は言い切ります。内府公が中華の育王山へ黄金を渡された事は種々の説があるけれども、実録には見えない、と。そのうえで伝えを一つだけ添えます。いまそれは筑前宗像の神社にあり、写しの石経は京の知恩院にあるという、と。ただし、宗像にあるものが何であるかを述べた一文には読み取れない字が残っているので、ここでは補いません。
なお、この二つの項には機械で読み取れなかった文字が当方の写しに、合わせて二十三文ぶん残っています。判読できた文だけを引用し、読めない文は本文でも扱っていません。落ちたのは、定光寺の建立者と開山の名、堂と境内の寸法、そして黄金をめぐる引きの前半です。
原文から
いずれも行基菩薩の作であって、国中七堂七体の一つであるという。
むかしは大寺であったという。寺領一町と『永禄田帳』に記す所である。
折節、異国の名医が日本に来て住していたので、父 入道はこの医をして薬を服せしめようと勧めた。重盛はこれを用いなかった。
内府公が中華の育王山へ黄金を渡された事は種々の説があるけれども、実録には見えない。