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鈴の音が止むまで

立石の寺の開山は、棺に鈴を持って入り、その音が止んだ日を死んだ日と数えよと言い残しました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

立石村の安楽寺は、地蔵の座像を本尊とする小さな寺です。幕末の地誌はまず建物を数えます。本堂は南向きで桁五間半、廊下と庫裡と門があり、門のわきには十王堂を作り合わせてある。境内は六畝四歩で、そのうち墓所は竪四間、横一間。寺領の畠は四畝十四歩。数え終えたところで、開山の名が出てきます。天文十六年(1547 年)の開基で、明室灯儀という僧であった、と。

この開山について、地誌は二つの書からの引きを並べます。二つは同じ人の話をしていながら、書き方がまるで違います。

一つめは『見好書』です。明室は立石氏の人で、出家した日の昼間に空へ星が出た。師は、これは大きな吉兆だから汝は名僧になるであろうと言った。諸国をめぐって修行を終え、この寺の開山となり、六十いくつの年の暮れに、弥勒から授記を受けるために入定した。僧も俗人もその場を守って見ていたが、七日めに鈴が鳴り止んだ。それが天文十六年の十二月八日である。遺言には、石室の中へ鈴を一つ持って入るから、その鈴の鳴り止む日を死んだ日と知れ、と書かれていた。書はそのあと、木を伐れば祟り、牛馬を隠せば害があると続けます。

二つめは『立石村私記』です。こちらは、その僧がどこから来たかを語ります。俗姓は長嶺村の篠石の人で、館へ薪を背負って行く途中、住吉の寺で談義があったので立ち寄って聞いた。そして和尚に、自分は出家するから髪を剃ってくれと言いました。和尚は、おまえは百姓だから上の許しがなければ出家させられない決まりだ、と答えます。それでも引き下がらず、寺を出て泣き叫んだ声がはるかまで聞こえた。和尚は、これほど望むのなら後には必ず名僧になるだろう、たとえ咎めがあっても出家させてやろう、と言って呼び戻し、髪を剃りました。

この書は、入定した理由も書いています。明室は立石和泉守の帰依を受けていた。ところがその一族に心変わりした者があり、何の恨みもないのに押し寄せて和泉守を討った。それを嘆いて入定したのだ、と。弟子には、棺の中に鈴の音があるうちは自分が生きていると思え、音がやんだら死んだと思え、と言い残します。弟子たちは棺の口に竹を差して窺い、七日ほどで鈴の音が止んだので、そこに葬りました。その場所は、いま殿川権左衛門の屋敷の前の高い所である、とも書かれます。

二つの書を並べて置いたのは、撰者の判断です。片方は星と授記と祟りを語り、もう片方は薪を背負った百姓の子が泣いて出家を願う場面から始めます。日付はどちらも同じで、鈴が七日で止んだところも変わりません。どちらが正しいと決めずに両方を写したので、読む側は、同じ一人の僧について二通りの覚え方が村に残っていたことを知ることになります。

項の終わりは、また物の記述に戻ります。鐘は元禄十二年(1699 年)に掛けた、高さ二尺四寸、渡り一尺六寸。入定の話のあとに寸法が来て、それで項が閉じます。

原文から

当寺は天文十六年(いま嘉永七年に至って三百八年である)、明室灯儀大和尚の開基にして、華光禅寺の末派である。

巻之二十 壱岐郡立石村之部(亀鶴山安楽寺の書き出し)

遺言にも、「石室の中に一つの鈴を持ち入り、この鈴の鳴り止む日を遷化と知るべし」とあった。

巻之二十 壱岐郡立石村之部(亀鶴山安楽寺・『見好書』)

和尚がいう、「汝は百姓である。ゆえに上より免許がなくては出家になされぬ作法である」というのに、ひたすら出家を望むので、和尚は談じない。

巻之二十 壱岐郡立石村之部(亀鶴山安楽寺・『立石村私記』)

ゆえにその棺の口に竹をさして窺うに、七日ほどで鈴の音が止んだ。

巻之二十 壱岐郡立石村之部(亀鶴山安楽寺・『立石村私記』)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之二十 壱岐郡立石村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 立石と長嶺と目良は兄弟 / 鳴滝に立つ三つの碑

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