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立石と長嶺と目良は兄弟
立石村の辰巳の方に、御方屋鋪と呼ばれる場所があります。項の書き出しは短く、むかし立石氏が住んだ跡だと言い伝えている、とだけ記します。そのあとは寸法です。竪二十七間、横十七間の石垣の上に、長屋の跡が二十二間ある。坤の隅に井戸があり、北のほうには泉水の跡というものもある。石垣と井戸の位置まで書いて、項は次の段へ移ります。
次の段は、屋敷の話ではありません。ここに住んだという一族がどこから来たのかを、『続風土記』からの長い引きで説き起こします。俗説として、むかし熊野権現が韓の地から日本へ渡られたとき、二人の臣下を召し連れた。一人は熊本、もう一人は鈴木。熊本の子孫が伊勢を領して公家となり、その流れの和泉守橘朝臣貞兼が苗字を本宮から立石に改めて、この島へ来た、というのです。
この説の面白いところは、地名と家名と紋を、一続きの話として説明してしまうことです。熊野権現を守って来て嶺に鎮座したので立石村と名づけ、本宮の苗字によって本宮村と名づけた。紀州にあった立石田を弟の長峯に譲ったので、その田を長嶺田と呼ぶようになった。紀州には目良川というものがあり、その目良の地を苗字にした家もある。そして三つの家の続き柄まで書かれます。目良・立石・長嶺は兄弟であって、目良が姉、立石が弟、長嶺は立石の弟である、と。
幕の紋についても取り決めがありました。檜扇の地扇に花橘を置いた紋は幕の紋だが、これを付けられるのは立石の家だけで、目良と長峯は花橘だけを用いる、と書かれています。実名の通字が「重」になったのは、熊野の子孫が一度絶えて鈴木の家から続いたからだ、という説明も付いています。名字と紋と、名前に使う一字までが、同じ由来の中で説かれているわけです。
この段には、家の後のほうの代の話も出てきます。立石弥五郎は甚内図書と改めた。実子がなかったので弟の八左衛門の子を養子に迎えて吉左衛門と名づけ、家を譲った。ところが養子を取ったあとに実子が生まれ、その子を戸左衛門といった。器量によって百三十石を賜った、とも書かれます。同じ家の中で、養子と実子の順が入れ替わったことになります。
地誌は、この長い説を写し終えたところで、自分の評を一行だけ置きます。この島の立石という苗字と先祖代々の次第は、まちまちの説ばかりで詳しくないから信じがたい、と。神が渡ってきたところから紋の使い分けまでを筋の通った一本の話として写しておいて、そのうえで信じがたいと書き添える。撰者はこの本の中で、こういう置き方をよくします。
なお、この項の中ほどには、対馬から兵船が渡ってきた年の一件も写されています。その顛末は別の村の項が詳しく、当方の別の面がそちらから起こしているので、ここでは触れません。この読み物が扱うのは、屋敷の跡と、そこに住んだ家の名の由来までです。
原文から
むかし立石氏の住居した跡となむ言い伝えている。
目良・立石・長嶺は兄弟である。目良は姉女である。立石は弟であり、長嶺は立石の弟であると。
熊野権現を守り来たって嶺に鎮坐し、「立石村」と名づく。また本宮の苗字をもって「本宮村」と名づく。
壱州の立石の苗字、先祖代々の次第は、区々の説のみで委しくないので信じがたい、云々。