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棟木は、いま見えない
国分村の当田に、不老山円福禅寺蓮花院があります。幕末の地誌はこの寺を、本尊と脇士の像から書きおこすのですが、当方の写しではその並びに読み取れない字が多く残っていて、寸法をたどることができません。読めるのは、護摩堂の本尊と同じ殿に不動の立像が寄宿していること、八幡宮の例祭が十一月の吉日であること、この寺が護国山の末寺であることの三つです。
この項の中心にあるのは、建てた人をめぐる話です。撰者はまず、いま飛騨の工が建立したという棟木の文がある、と書きます。棟木に彫られた文言を写そうとしたわけです。ところが、その文言そのものは当方の写しでは読めません。願主の名も年紀も、字が欠けています。
読めるのは、そのすぐあとに置かれた一文のほうです。しかし、いまその棟木は見えない、と撰者は書きます。証しがあると述べた直後に、その証しがもう無いと断っているわけです。この項には、こういう書き方がもう一度出てきます。飛騨の匠が一夜のうちに堂を建てたという俗説を記した文にも読み取れない字があり、当方の写しではその伝えを追うことができません。
それでも撰者は、飛騨の匠の作だという見立てを捨てません。ことに昔の制が残る。飛騨の匠の作である。「竹田の番匠」というのは俗説である、と続けます。そのうえで秀政という人の按じ書きを引き、文保二年(1318 年)は花園帝の治世十一年で、関東は北条高時の代であった、と年代を確かめます。棟木が無くても、造りの古さと年代の勘定で押していこう、という姿勢です。飛騨は名工の多い所である、という一文も添えられています。
寺そのものも移り変わっていました。前は蓮花院といった。真言宗である。そのあと万治三年(1660 年)より禅宗になった、と読めます。寺領は前々五石あったものが、いまは三石の御判物を頂戴する、と減っています。堂の正面には石階があり、そこから二十五段下って南に、護摩堂の跡だという畠がある。旧地は一町ばかり西にある。跡ばかりが並ぶ項です。
なお、この項には機械で読み取れなかった文字が当方の写しに二十七文ぶん残っています。全五十一文のうち半分をこえます。判読できた文だけを引用し、読めない文は本文でも扱っていません。落ちたのは、本尊と堂の寸法、棟木の文言そのもの、一夜で建てたという俗説の中身、寄附状の年月の一部です。
原文から
いま飛騨の工が建立したという棟木の文にいう。
しかし、いまその棟木は見えない。
ことに昔の制が残る。飛騨の匠の作である。「竹田の番匠」というのは俗説である云々。〇秀政いう。文保二年は花園帝の治十一年、関東 北条高時の代である。
前は蓮花院といった。真言宗である。