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飢えた年に免じられたもの
第一巻には、税を配り直す話だけを集めた項が二つ並んでいます。困った民に施す「賑給の事」と、税を免じる「免田租給事」です。どちらも壱岐だけの記録ではなく、島の名がほかの国の名と一緒に並ぶ形で残っています。都から見た壱岐が、どういう時に名を呼ばれたかがわかる並びです。
賑給の項は、古い言い伝えから始まります。仁徳天皇の四年、高いところに登って民の家から立つ煙の少ないのを憐れみ嘆いて、課役を許した。同じ天皇の十年には、こわれた宮室を造らせるために課役を科した。ただしそれは万民の願い出によるものだ、と地誌は付け足します。免除と再開の両方を書いて、片方だけを美談にしていません。
そこから先は年の分かる記録です。大宝元年(701 年)九月、使いを諸国へ遣わし、産業を見て回らせて百姓を賑わし救わせた。天平神護元年(765 年)二月には、和泉・山背・石見・美作・紀伊・讃岐・淡路・壱岐・多褹などの国が飢えたので、そろって賑恤を加えた。承和十年(843 年)九月には、肥前・豊後・薩摩の三箇国と壱岐・対馬の両島がならんで飢えたため、これに賑給した。壱岐は毎回、名簿の途中に置かれています。単独で名を呼ばれるのではなく、飢えた地域のひとつとして数えられていました。
もう一方の免田租給の項も、同じ形です。大宝二年(702 年)四月、その年の田租を諸国に免じ、庸を半分に減じた。あわせて、曽祖父から玄孫まで代々よく親に仕えた家は、戸ごと課役を免じて門に札を立て、義家とした、とも書かれています。税を免じることが、褒めることと同じ手続きで行われていました。
年ごとの事情が具体的に残るのは、大同元年(806 年)十一月の記録です。大宰府がこう言上しました。管内の諸国は水害と旱害、それに疫病が毎年つづき、百姓は減り、田畑は荒れている。ぜひ田租を免じて困窮を救っていただきたい。ただし損害の大きさに応じて、免じる年数の長短を決めたい、と。免除を願いながら、一律にせず差を付けようと自分から申し出ています。
勅の答えは、その申し出のとおりでした。筑前・肥前はよろしく二、三箇年を免ずべし。筑後・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・壱岐などは、ならびに一、二箇年を免ずべし。九州じゅうの国が二つの組に分けられ、壱岐は短いほうへ入りました。どういう基準でその線が引かれたかは、この記録には書かれていません。
地誌はこれらを並べるだけで、島が豊かだったとも貧しかったとも書きません。この二つの項に限っていえば、壱岐の名は飢えた国の名簿と、税を免じる国の名簿の中に現れます。単独で呼ばれることはなく、いつも並びのひとつでした。
原文から
高きに登って民の家の煙のとぼしいのをあわれみ嘆かせ給い、課役をゆるし給うた。
使いを諸国に遣わし、産業を巡省して百姓を賑恤させた。
管内の諸国は、水旱・疾疫が毎歳あい継ぎ、百姓は彫亡して田園が荒廃している。伏して望むらくは、特に田租を免じて窮弊を済いたい。
筑後・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・壱岐などは、ならびに一、二箇年を免ずべし