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壱岐の郡は大郡というべし
壱岐に郡は二つしかありません。壱岐郡と石田郡です。『和名抄』も『拾芥抄』も『民部式』も、そろって同じことを書いています。『民部式』の書き方はことに短く、壱岐島は下国であって壱岐・石田を管する、というだけです。国としては下の等級、郡は二つ。それが都の帳簿に載った島の姿でした。
ところが撰者の後藤正恒は、その二つの郡の大きさのほうに目を留めます。律令には郡の等級があり、いくつの里を抱えるかで大郡から小郡までを分けました。里は土地の広さではなく戸の集まりで、五十戸をもって一里とし、里ごとに長を一人置く、と大化の詔に定められています。つまり郡の等級は、面積ではなく家の数で決まっていました。
等級の刻みは、拠る書によって食い違います。『日本書紀』の孝徳天皇の巻によれば、四十里を大郡、三十里以下四里以上を中郡、三里を小郡とする。いっぽう『戸令』では、二十里以下十六里以上を大郡とし、十二里以上を上郡、八里以上を中郡、四里以上を下郡、二里以上を小郡とする。境目の数字がまるで違います。
そこへ撰者は、島の戸数を持ち込みます。壱岐国の二郡におよそ八千戸、一郡につき四千戸とするなら、それは八十里というべきである、と。撰者はそのうえで、『戸令』が二十里以下十六里以上を大郡とすると書いていることを引き直し、こう結びます。いずれにしてもこの国の郡は実に大郡というべきである、と。下国と書かれた島の郡が、郡の物差しでは大きいほうへ振り切れる。その食い違いを、撰者は一行で言い切っています。
もっとも、この計算には撰者自身が但し書きを付けています。八千戸というのは幕末の島の戸数であって、むかしは家も少なかったであろう、ただいまの数をもってこう言っているのだ、と。過去の等級に現在の数を当てているという自覚が、そのまま書かれています。
この項には、もう一つ落ち着かない話が載っています。『壱岐史拾遺』の附録によれば、この島は中ごろ四つの郡に分かれていたというのです。撰者は四つに分けたとしても一郡二千戸で四十里になる、と同じやり方で数え直します。そのうえで、そもそもその説の根が見つからないと書きました。中ごろ四郡になったという説は正史に見あたらないので詳しく知るすべがない、なお実記を尋ねてみるべきである、と。等級を測る物差しは示せても、いくつに分かれていたかのほうは確かめられない。分からないところを分からないまま残して、この項は次へ進みます。
原文から
壱岐島は下国、壱岐・石田を管する。
およそ郡は二十里以下十六里以上を大郡とし、十二里以上を上郡、八里以上を中郡、四里以上を下郡、二里以上を小郡とする。
しかし壱岐国二郡におよそ戸数八千戸とし、一郡四千戸とするときは、八十里というべきである。
さて中ごろ四郡になったという説は、正史にも別に見あたらないので、詳しく知るすべがない。