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渡海の使いに配られた稲

律令は、海を渡る使いを送り届ける者へ、日ごとの食を稲で数えて割り当てていました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

『壱岐名勝図誌』の第一巻には、島の制度を項目ごとに整理した箇所があります。そのうちの一つが郵駅の事です。陸の道を継いでいく仕組みを、海に浮かぶ島でどう運んだのかが、断片的に残っています。

制度そのものは『日本書紀』から始まります。孝徳天皇の大化二年(646 年)、はじめて駅馬と伝馬が置かれました。置き方は『厩牧令』が定めます。おおよそ三十里ごとに一駅を置く。地形が険しかったり水と草のない場所であれば、都合に合わせて置いてよく、里数にはこだわらない。乗り具や蓑笠は、その駅に置く馬の数に応じて備える。駅にはそれぞれ長を一人置く。

島で問題になるのは、駅と駅のあいだの陸の距離ではありません。海です。『主税式』に、佐渡・隠岐・壱岐・対馬といった島の駅子には、海を渡る使いを送るぶんとして、一日あたり稲を四把ずつ食料に給する、とあります。陸の駅なら馬を替えて次の駅へ渡せば済みますが、島では人が船で送り届けなければなりません。その手間を、日ごとの米として制度が見積もっていたことになります。

馬を養う費用も決められていました。同じ式の駅馬法に、壱岐島は上も下も論ぜず、ともに一百束とあります。傷んだときの扱いもあって、志摩・武蔵・下総・常陸・陸奥・若狭・能登・越中・佐渡・淡路・讃岐・筑後・壱岐の十三国は、十分の一の損まで許すと決められています。並んでいるのは都から遠い国や島の国で、壱岐もその一つに数えられていました。

この項の書きぶりで目を引くのは、規定がどこも人と物の量で書かれていることです。一駅あたりの馬、一日あたりの稲、一年あたりの束、許される損の割合。制度の側から見れば、島は数えて配る対象でした。

同じ第一巻の末尾近くには、幕末の家の数が載ります。島じゅうでおよそ七千六百五十五烟。うち村々が五千八百八十七烟で、浦々が一千七百六十八烟です。原典はこの数を並べるだけで、村と浦の割合には触れていません。

古代の駅の規定と、幕末の家の数え上げ。あいだには千年以上ありますが、書き方は似ています。どちらも、この島にどれだけの人と物があるかを数えた記録です。海を渡る島に駅の制度を敷いたとき、律令が最後まで具体的に決めていたのは、渡海の送り手に配る食料のほうでした。

原文から

およそ諸道の駅を置くべき所は、三十里ごとに一駅を置く。

巻之一 事実伝説(郵駅の事・『厩牧令』)

およそ佐渡・隠岐・壱岐・対馬などの国島の駅子は、渡海の送使におのおの食として日に稲四把を給う。

巻之一 事実伝説(郵駅の事・『主税式』)

志摩・武蔵・下総・常陸・陸奥・若狭・能登・越中・佐渡・淡路・讃岐・筑後・壱岐など十三国は、十分に損一分を許せ、とある。

巻之一 事実伝説(郵駅の事・駅馬死損法)

国中の家数はおよそ七千六百五十五烟(内 村々 五千八百八十七烟、同 浦々 一千七百六十八烟)。

巻之一 事実伝説(民戸口員の事)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之一 事実伝説。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 宇治川へ出た馬の母 / 薬師丸の田をめぐる四通

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