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十尋の海に潜る
渡良村の小崎浦は、家が六十三戸の小さな浦です。『壱岐名勝図誌』はこの浦の項に、海に潜る仕事の手順をひととおり書き留めました。
漁期は決まっていました。毎年五月の下旬から八月ころまで。船には長崎御用の小幟を立てます。採りに行く先も名指しされています。風本の海の灘、瀬戸の海の赤瀬、渡良の大島の後根滝。小崎の海士は自分の浦の前だけでなく、島をぐるりとまわって潜っていました。
深さは十尋以上、十一尋か十二尋ほど。原典は現代の単位に換算していないので、ここでもそのまま置きます。道具は長さ一尺四、五寸の鉄の器具で、浦では「鮑金」と呼びました。海底の石にへばりついた貝を、それでこじ取ります。一度もぐって一つ、うまくいけば三つ四つを一息で取り上げる、と書かれています。
撰者はここで、地誌らしくない一文を差しはさみました。ときには息が絶えそうになることもあるという、聞くだけでもつらい仕事である、と。寸法と数を淡々と並べる本のなかで、書き手の感想がそのまま残っている数少ない箇所です。
採った鮑は、そのままでは納められません。二通りの加工が続けて書かれています。一つは干して串に刺すやり方で、身を貝から外して板に伏せ、上から厚さ二分ほどに剥き、熱い湯にくぐらせ、竹の串に五つずつ刺す。串は長さ二尺三寸五分、幅五分ほど。十串を細縄で両側から組んで一連とし、夜は板にはさみ、昼は日陰で干します。もう一つは塩で煮るやり方で、生の貝を二晩ほど塩に漬け、海水の塩で洗い、竹の串に横に五つずつ刺して天日に干しました。
干し上がったものは四尺五寸の小櫃に納めて城下へ運ばれます。納める数まで書いてあります。藩主へ六十八連、長崎へは数百連。塩で煮たほうは藩主へ五連で、長崎へはやはり数多く納めました。城下の分は数え切れる量で、長崎の分は数え切れないほどある。この浦の仕事の向きが、どちらを向いていたかが分かります。
六十三戸の浦が、夏のあいだ島じゅうの瀬をまわって潜り、加工して、城下と長崎へ送る。壱岐の海の産物が島の外へ出ていく道筋を、地誌はこの一項だけで書き切りました。
原文から
そもそもこの浦の海士は、毎年五月下旬より八月ころまで鮑を取り、舩に長崎御用の小幟を立つ。風本海の灘・瀬戸海の赤瀬・渡良の大嶋の後根滝などという所にて取るといえり。
海底に入る事、十尋以上 十一二尋ばかり。
実に折によりて息絶えむとする事もあるとある。より、聞くにもからきわざにぞありける。
国守に納むる六十八連、長崎納め数百連のよし。