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蒙古のあとに配られた七百町
『壱岐名勝図誌』の第一巻に「古今神領の事」という項があります。書き出しの一行が、この項の主題をそのまま言い当てています。いま国中の諸社の知行は総高四十六石一升。むかしはこうではなかった、と続くのです。
むかしの配分の根拠として、撰者は『吉野家譜』から弘安四年(1281 年)の戦いの記事を長く引きます。蒙古と高麗の軍が対馬を経て壱岐へ向かい、島の武士と力戦した。伊岐成末らが突進すると蒙古軍は崩れ、洪茶丘は馬で逃げた。翌日また戦って蒙麗軍は敗れた。船は腐り糧は尽きたと将たちが議した。そして八月一日、神風が賊船を破った、と結ばれます。勝ったのは諸社に祈ったからだ、というのがこの記事の筋立てです。
そこで島の田が神領として配られました。項に並ぶのは、社の名と、どの村の田を何町ずつ充てるかという表です。大きな社は九十四町の並びで、香椎宮・山方本宮八幡・国分天神社・石田郷老松天神・鯨伏郷住吉社がこの額でした。箱崎八幡は五十七町と他村の七町、物部郷蓬宮は六十四町です。
そのあとに小さな社が続きます。武生水村妙見社が六反四丈、国府印鑰社が二反四丈、若宮島社は田ではなく三百文。そのほかの小社をまとめて七十三町八反。合計して水田七百町を、諸社が永く知行するところとする、と結ばれます。額の大きさは社の格の順に並んでいて、どの村の田を割くかは社ごとに決められていました。
七百町という数字の大きさは、同じ第一巻の別の項と並べると見当がつきます。「田畠の事」は、『三代実録』が壱岐島の水田を六百十六町と記していること、そして幕末の水田が千六十五町余に増えていることを書いています。ただし配分のあった弘安のころの水田が何町だったかは、この本のどこにも書かれていません。当時の耕地に占める割合は分からない、というのが正しい読み方です。
それが幕末には四十六石一升まで縮んでいました。慶長十二年(1607 年)の帳面には、社家領として田畠屋敷合わせて四町三反余、分米五十六石余と記されていたといいます。撰者は『神社考』を引いて、神領が多かったころの姿を書き添えました。大きな社には社家が十二家も属し、正大宮司から御灯まで職の名と格式が分かれ、年中の祭は厳重であった。減ったのは田の面積だけではなく、社を支える人の数と役職でもあった、という並べ方です。
末尾に撰者自身の考証が置かれます。神に位階を授けるのは尊卑を分けるためではないが、実際には神位の高下で神領の多寡が定められていた。北畠親房の書には、正三位以上は四至九町、従四位以上は八町、従五位以上は四町とある。この国の式内社はおおかた正三位以上だろうから九町の例だろうか。しかしその領園も、しばしば削られて大いに減った。祈りへの返礼として配られた田が、どのように縮んでいったかを、数字で追った項です。
原文から
都合、水田七百町。諸神領として永く知行するところの者である。
いま国中の諸社の知行は総高四十六石一升。むかしこの国の諸社に神領が多く寄附された事は、次のとおりである。
神領が多く、社家領まで配分の多かった時世には、大社は一社に社家十二家も附属して、正大宮司・権大宮司・擬大宮司・神主・殿上祝・禰宜・宮司・公文・御灯などそのほか品々の職号にそれぞれ格式があって、年中月々の祭事は厳重であったという。