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鯨を取る八百五十八人
『壱岐名勝図誌』は村ごとに一巻を当てています。そのうち二つの巻に、同じ仕事の記録が分かれて入っています。箱崎村の恵美須浦と、可須村の田浦。どちらも鯨を取る浜でした。
恵美須浦のもとの名は塩津といい、恵美須大明神を祭ってから浦の名も恵美須になった、と書かれています。この浦で鯨を取ることは紀州の熊野に次いで古く、明暦のころまでは紀州から取りに来ていた、と言い伝えられていました。紀州のは小鯨、この浦の海のは大鯨である、という一行も添えられています。
取り方が変わった時期も、人の名前つきで残りました。寛永の初めに肥前大村の深沢伊太夫が鯨組を置いたけれども、そのころは鉾のようなもので鯨を突いて取っていた。その後 深沢儀平治が工夫をめぐらせて網組を仕出し、小値賀島にも組を置いた。寛文七年のころには播州明石の喜多屋某もこの浦に組を置き、そのころから隣国の浦々に鯨組が数多くできた、と続きます。突いて取る漁から、網で囲って取る漁への切り替わりが、年と名前で記録されています。
宝永の初め、儀平治は勝本の田浦を見立ててもう一つの組を置きました。恵美須浦に劣らない場所で、この二か所が隣国で最上とされたといいます。それからは毎年、冬から春にかけて人が群れ集まり、客船の出入りは数えきれないほどだった、と書かれています。
その田浦の規模が、巻之二十三に数字で並びます。沖へ出る人数は七百二十三人。うち水子が六百七十二人、羽指が五十一人、別当が十二人。ほかに帳役四人、鍛冶二人、大工三人、飯焼二人、魚切三十二人、樽屋二人、茶廻四人、若子五十人。陸の両納屋に百三十五人。合わせて八百五十八人です。船は双海十二艘、双海附十二艘、貴子船二十四艘、納屋船二艘、持双八艘。大納屋は桁二十三間・梁八間の苫葺きで、油を煎る釜が十八所、坪釜が十七所ありました。
撰者は道具の名も書き写しています。万、剣、羽矢、魚切鉋丁。根苧、加々須、白瀬、胴縄、矢縄、突縄、印網。苧縄は百四十六端を納め、一端は十八尋四方だと注が付きます。ひと冬の漁のために、これだけの人と物が浜に集まりました。
さらに「納屋手歌」という長い歌が丸ごと写されています。冒頭は「夫組は 冬組春浦」と始まり、鯨の種類、体の部位、浜の職の名、船の部品を、そのまま歌の形に並べたものです。旦那・手代・別当・帳役・若衆・見習、羽指、流し、沖番、水主、舳押、山見。歌いながら仕事の名を覚える形になっていて、末尾は「実に蓬萊の山ぞかし」で結ばれます。
この仕事が浜に何を残したかも、記録の側から分かります。恵美須浦の塩津明神の石祠は、寛文元年(1661 年)に平戸の網屋惣左衛門が建てました。瓦葺きの拝殿は延宝八年(1680 年)に深沢儀平次が建てています。鯨組を率いた人が、その浦の社の拝殿を建てていました。
原文から
この浦はむかしより鯨を取ること、紀州 熊野に次げりと。明暦のころまでは紀州より取りに来たと言い伝える。紀州のは小鯨、この浦の海のは大鯨なり。
寛永の初めには肥前 大村の深沢伊太夫が鯨組を置く。然れどもそのころまでは鉾・守のような物をもって鯨を突いて取れり。その後 深沢儀平治が工夫し、思慮をめぐらして網組を仕出し、小値賀島にも鯨組をす。
この浦は年々、冬より春に至って鯨組を出して賑わしい所である。その納屋・道具・人数などのおおよそを、次に出すべし。
沖立の人数は七百二十三人。地の両納屋の惣人数は一百三十五人。惣人数は合わせて八百五十八人。