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石田野に旅寝したまま

新羅へ渡る使いの一人が壱岐で病死し、仲間の詠んだ挽歌が万葉集に九首残りました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

『壱岐名勝図誌』の第一巻、島のあらましを述べた「郷村の説」の途中に、九首の歌がまとめて引かれています。奈良時代に新羅へ向かった使いの一行が、この島で仲間を失ったときの挽歌です。

亡くなったのは雪連宅満という人でした。壱岐島に着いたところで急な病にかかり、そのまま世を去っています。一行は島に留まって葬り、三人がそれぞれ長歌と反歌を詠みました。作者は名の知れない一人と、葛井連子老、そして六鯖です。

最初の長歌は、待っている家族の側から書かれています。朝廷の使いとして韓国へ渡るあなたは、家の人が身を慎んで待たなかったのか、それとも自身に過ちがあったのか。秋になったら帰りますと母に言い置いて出たのに、時は過ぎ月も経った。今日は帰るか明日は帰るかと家の人は待ち焦がれているだろうに、遠い国にはまだ着かず、大和からも遠く離れて、岩の荒れた島に旅寝しているあなたよ。目的地にすら着いていない、というところに嘆きの中心があります。

反歌の一首が、この島の地名を残しました。石田野に旅寝したままのあなた。家の人が「あの人はどこか」と私に尋ねたら、何と答えればよいのか。連れて帰れなかった者の、帰ってからのことを詠んでいます。

葛井連子老の長歌は、季節を具体的に書きます。雁が次々に来て鳴くので、母も妻も朝露に裳の裾を濡らし、夕霧に袖を濡らして、無事でいるものと思って外に出ては待っているだろうに。そして最後に、秋萩の散る野辺の初尾花を仮小屋に葺いて、雲を隔てた遠い国の、露霜の寒い山辺に旅寝していることだろう、と結びます。葬った場所の草木と、そこに置いてきた仲間の姿が、そのまま重ねられています。反歌の一首は、黄葉の散る山に旅寝したままのあなたを待っているであろう人こそ悲しい、と詠みました。

三人目の六鯖は、船旅そのものを詠みます。海のおそろしい道を、心安まることなく苦しみながら来て、せめてこれからは無事に行こうと、壱岐の海人の熟練の占い手に鹿の肩を焼かせて占い、さあ行こうとするその時に、夢のように、道の半ばで別れることになったあなたよ。占ってもらってなお、こうなった、という順序です。反歌では、新羅へ行くのか家へ帰るのか、壱岐の島にあって進む手立ても思いつかない、と詠みました。使いの一行が島で立ち往生していたことが、そのまま歌になっています。

撰者はこの九首を、島の景色と産物を述べた文の直後に置きました。前後には、遣唐使が多くこの島に船を寄せたこと、承和四年に遣唐使の船が逆風で壱岐へ流れ着いたことが記されています。海の道の途中にある島だから人が寄る、そして寄ったまま帰れなくなる人もいた、という並べ方です。

原文から

石田野に 宿りする君 家人の いづらと我を 問はばいかに言はむ

巻之一 事実伝説(『万葉集』巻十五、雪連宅満を悼む反歌)

秋萩の 散らへる野辺の 初尾花 仮廬に葺きて 雲離れ 遠き国辺の 露霜の 寒き山辺に 宿りせるらむ

巻之一 事実伝説(『万葉集』巻十五、葛井連子老の挽歌の末尾)

新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思ひかねつも

巻之一 事実伝説(『万葉集』巻十五、六鯖の反歌)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之一 事実伝説。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 竜宮からもらった萩原 / 国府が置いた社

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