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国府が置いた社
壱岐の社の並びには、延喜式神名帳の二十四座とは別の系統があります。惣社、一ノ宮、二ノ宮という呼び名です。『壱岐神社誌』はこれを、信仰の格ではなく国府の都合から起こったものとして説明します。
惣社について後藤正足はこう見立てます。国守が赴任したとき、あるいはその後に幣を奉る必要が生じたとき、国府から遠い社を一つずつ巡るのは骨が折れる。そこで一か所にまとめて拝めるようにしたのが惣社だろう、と。一ノ宮・二ノ宮は国府の近くに置かれ、島の社の首班として神祇官の布告を伝えました。国司から直に達しがあるときは、まず一ノ宮の社人へ告げ、社人がさらに各社へ通す。諸社や庶人からの上申も一ノ宮を経由します。後藤は、一ノ宮が国府と諸社・庶人のあいだを取り次ぐ役を担い、国府の祭政一致の機関のようであったと説明しています。
壱岐に当てはめると、惣社は湯岳の惣社の丘に鎮座した惣社神社で、のちに国府の馬場の東にある録所権現へ移ったらしい。一ノ宮は湯岳の国府神社で、印鑰大明神と称し、あとになって用字を輿神社と誤られた。これは伝説と記録がよく証している、と後藤は書きます。二ノ宮のほうは勝本の香椎大明神、すなわち聖母宮であろう。こちらは証拠を挙げず、察するに難くない、という言い方にとどめています。
前の節にあたる第二章 第一節では、社号の付き方が整理されています。住吉神社の住吉神、海神社の海童神、高御祖神社の高産霊尊、大国玉神社の大國魂神は、神の名から採ったもの。物部は、部曲や国造が持った私民の職名から採ったもの。それ以外の多くは、鎮座した邑や里の地名を冠したものだろう、といいます。地名を冠した社には、その土地の領有者や有力者が祖神を祭って祭政一致の治を行うために起こしたものが多い、と続きます。
そしてここに後年の混乱の種があった、と後藤は見ます。地名を冠した社は、さまざまな事情でたびたび位置が動いた。社の名は地名のままなのに、社の場所が変わる。どの社がどこの社だったのかが分からなくなり、後世の混雑を引き起こす源になった、という筋道です。二十四座の比定が難しいのは、目録の書き方が雑だったからではなく、社そのものが動いたからだ、という説明になっています。
延喜式神名帳が壱岐から二十四座を採ったこと自体にも、後藤は一言を添えています。神名帳は、延喜元年からさかのぼって百年より新しい社を収めない決まりだった。それでも二十四座が採られたのだから、当時の島の文化の程度が知れる。ここに入らなかった社も少なくなかったはずで、延喜・延長のころには相当な数の社がすでに祀られていただろう、と。数えられた二十四という数は、島にあった社の全部ではなかったことになります。
原文から
惣社は国守が赴任の際、またはその以後において奉幣を要する場合に、国府と遠隔地の巡拝を避けようとして興したものであろう。
地名を冠せる神社にありては、各種の事情のためにしばしば神社の位置に異動ありて、後世の混雑を惹起せる源因をなせるもののごとし。