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五十社をめぐる
延宝四年(1676 年)の査定のあと、壱岐の式内二十四社は二説にまたがることになりました。『壱岐神社誌』によれば、島の人は正月の巡拝にさえ二の足を踏むようになったといいます。
そこへ手を打ったのが、箱崎八幡宮の祠官 吉野季教です。季教は島じゅうに鎮座する五十あまりの社を採録して人々に示しました。ここから五十社巡拝の慣習が起こり、式の内か外かを問わずに参るようになります。どちらの説が正しいかを決めるのではなく、その争いごと脇へ置いてしまう手でした。
一覧は、社格と村と社号を並べただけのそっけないものです。物部の天手長男神社と天手長姫神社と物部布都神社から始まり、牟城の津上神社と妙見宮、鯨伏の住吉大明神、長峰の天満宮と爾自神社、立石の熊野権現と阿多見神社、本宮の手長姫神社、勝本の聖母大明神、箱崎の八幡宮、諸吉の高御祖神社、国分の月読神社と国片主神社、川北の兵主神社、湯岳の興神社と角上神社、筒城の白沙八幡宮と海神社、志原の大国玉神社と弥佐支刀神社、初山の鏡岳権現と見上神社、武生水の国津意加美神社、渡良の国津神社。式内の社と式外の社が、村の順に淡々と並びます。
内訳は後藤正足が数えています。式内社二十四座、式外社十七座、別社二座、末社七座。別社というのは式の内にも外にも入らない社をいう、と注が付きます。合わせて五十座です。
この一覧をどう見るかについて、後藤は手放しではありません。採録の基準は村の宗廟を重く見たものらしいが、数を五十にそろえようとして無理に取り合わせたところがある。末社まで加えているように、取捨には怪しいところもある。そう書いたうえで、当時は判別に苦しんだものもあっただろうから、そこは察してやらねばならない、と続けました。批判と弁護が同じ段に並んでいます。
考証としては粗くても、巡る道としてはこの五十社が長く使われました。式内かどうかで割れていたのは調べる側の話で、参る側には五十という数と、村ごとの順番があれば足りたのです。
原文から
この表の五十社は、その村邑の宗廟と称するものに重きを置いて採録したものらしい。だから数を五十にそろえようとして、無理に取り合わせたところがある。
末社まで加えているように、その取捨には怪しいところもある。ただし当時にあっては判別に苦しんだものもあったことは、察してやらねばならない。