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社を継ぐには京へ上る
江戸幕府の時代、壱岐の神職が社務を継ぐには、国主の認可のほかにもう一つ要るものがありました。全国の神祇道の管領職である京都の吉田家が出す「継目裁許」です。
はじめてこれを受けに行ったのは、聖母宮の祠官で惣神主でもあった吉野采女尚忠でした。万治三年(1660 年)に京へ上り、本所の卜部兼連について唯一神道の作法を伝授され、神道裁許状を得て帰り、一族と同職のあいだに説いて広めます。次いで寛文二年(1662 年)に箱崎八幡宮の祠官 吉野掃部末益が続き、有安の東風大明神、初山の鏡嶽権現、小牧の天道大明神の社家がしだいにこれにならいました。
目を引くのは、その旅費の出どころです。寛文三年(1663 年)に采女が上京するにあたっては、まず亀丘城の城代へ陳情し、次いで平戸へ渡って寺社役へ願い出て、国主の指図を仰ぎました。出た沙汰は、国主から銀二百目と米二俵。島じゅうの在浦と鯨組から銀三百九十目。瀬戸と夷浦の鯨組から銀五両ずつ。平戸組と大村組の商人たちから銀三両ずつ。一人の資格を取りに行く旅を、島が分担して送り出しています。これ以後、社家の継目の料金や旅費は、その土地の氏子や篤志家の合力を得るのが例になりました。
納める側の金額も残っています。正徳五年(1715 年)に吉野図書季教が控えた一覧では、裁許状が本所へ新銀四枚、十八神道が銭二十貫文と金子三歩、紗の狩衣が一枚と金子三歩、宗源伝授が四ツ宝銀二貫目、位階が新銀九百七十目。文政四年(1821 年)の改め帳の写しでは、西国の裁許状が銀二枚、位階はおよそ金十六両とあります。後藤正足は二つを見比べて、前者は受ける側が事実のまま並べたもの、後者は授ける側の文書を写したものだろう、と見立てました。
免許は待遇に直結します。宗源伝授を受けた社家には、元文四年(1739 年)に「座席は御馬廻席、惣社人の上座たるべし」と申し渡されました。安政三年(1856 年)には、法令免許を受けた牟城・黒崎・渡良・湯岳の四人の祠官が、小頭と同じく一代限りで御間内での御礼を許されています。どの行法まで伝授を受けたかが、そのまま席順になったわけです。
国主への手続きも、しだいに重くなりました。はじめは島にいたまま口頭や文書で許しを求めていたのが、制度が整うにつれて、願い出る者が自分で平戸へ渡り、寺社奉行の手で任命を受けなければならなくなります。嘉永元年(1848 年)に吉永上総が武生水の国津意加美神社の祠官の継目を願い出たときも、平戸の寺社奉行の役宅で申し渡しを受けました。
この仕組みは明治元年(1868 年)に終わります。閏四月の布令は、神祇官の再興にともない天下の神主・禰宜・祝部・神部はすべて神祇官に附属せよ、吉田家の社人の司配は廃止する、と告げました。継目も初重も宗源行法も止み、島の社家は壇と神具を取り除いて、祓と祝詞で祭りを勤めるようになります。二百年ほど続いた京都との縁が、ここで切れました。
原文から
神職が社務を継承するには、昔から国主の認可を要するほかに、全国の神祇道の管領職である吉田家の「継目裁許」を必要とした。
このたび吉田家において宗源伝授これある旨、聞き及び候。これにより座席の儀は御馬廻席を仰せ付けられ、惣社人の上座たるべき旨、仰せ出だされ候こと。
初重・宗源行法の儀は、吉田家から差し止めの旨が去年の夏に申し来たったので取りやめておりましたが、勤め方の区別がつきかね、当時は困り入り候につき、押して今日まで勤めてまいりました。