このページの更新 10/16 16:05
山伏がひらいた三つの権現
陰陽道と並んで、修験道の山伏も古くから壱岐にいました。『壱岐神社誌』によれば、吉野朝の初めごろから、豊前の彦山権現の末派として修験僧が海を渡ってきます。
開いた社は三つです。筒城村の白山権現を住勢坊が、池田村の高山権現を宗勝坊が、住吉村の伊賀岳権現を泉玉坊が開基しました。この三社の僧は代々途切れることなく伝わり、明治維新まで続いた、と後藤正足は書きます。そのあいだの盛衰は詳しく述べられないが、末路の顛末は神祇道にも関わるとして、文書を順に並べていきます。
明治二年(1869 年)七月、彦山の総務局から知らせが来ます。神仏混合を廃止せよとの沙汰があったので、昨秋 上洛して伺い出たところ、末山の取り扱いは従来どおりでよいと言われた。ただし以後は摂社と改める。法頭の称号は廃して社務と改める。九月には藩庁からも、英彦山の指図を受けて神勤するように、と達しがありました。明治三年(1870 年)四月には彦山から、復飾せよ、つまり僧をやめて神職に戻れ、との申し付けが届きます。
ところが翌年、話が変わりました。明治四年(1871 年)四月、郡政方から「彦山の神職一派として立つ訳ではないので、分割してその社司の支配とせよ」との達しが出ます。彦山の下でひとまとまりだった者たちが、島の社司それぞれの下へ割り振られることになったのです。
山伏の側は伺いを出しました。彦山の座主が参内して朝旨を伺い、末山の取り扱いは従来どおりと宣下を蒙ったので、上洛の手伝い銀まで差し出した。それなのに分割の支配となれば、これまでの配札ができなくなるのではないか。自分たちはこの島で家ごとの割り地を借りて農業をしており、賃仕事の扶持ほどの稼ぎしかない。配札が止まれば、朝夕の煮炊きの煙も絶え絶えになる。名を連ねたのは七人でした。
受け取る神職の側も伺いを出しています。社家のならわしでは、一村の宗社に奉仕する神職のほかは下社人と称し、その村の祠官が願書を取り次ぐ形で、社司が直に支配することはしていない。彦山の神職は下社人の列と心得て取り次いでよいものか、と。どちらの側も、扱いかねていました。
裁く側の答えは、答えになっていません。浦大属は伺い書の掛紙に、この伺いの実情も徹しかねるので、人の心が折り合う適宜のところを見込んで掛け合ってほしい、と書いただけでした。後藤は、時勢をよく考えて釣り合いを失うまいと努めたものだろう、と評します。その後、修験僧は名も実も廃れて社務となり、やがてその職も止み、権現はあらためて神社と称して、祠掌が奉仕することになりました。
原文から
吉野朝の初期から豊前の彦山権現の末派として修験僧が渡ってきた。筒城村の白山権現の住勢坊、池田村の高山権現の宗勝坊、住吉村の伊賀岳権現の泉玉坊を開基し、この三社の僧は長く伝わって変わることなく明治維新にいたった。
これまで官人であった私どもは、ことにこの島では家ごとの割り地を借りて農業をしておりますので、賃仕事の扶持ほどの稼ぎしかなく、たちまち朝夕の煮炊きの煙も絶え絶えになってしまいます。
この伺書の実情も徹しかねますので、人の心が折り合う適宜のところをお見込みのうえ、お掛け合いくださいますように。