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大神楽の日に起きたこと

十月十日、島じゅうの社家が集まる祭で争いから人が討たれ、二つの家が滅びたと社記は伝えます。

1926 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

壱岐の社家は、かつて二つに分かれていました。壱岐郡を「山方」、石田郡を「原方」と呼び、それぞれに頭がいた。『壱岐神社誌』が引く湯岳の大巡神社の記に、その二つが一年に一度そろう日のことが書かれています。

毎年十月十日、諸社の祭礼が無事に済んだしるしとして、山方の大宮司、原方の禰宜、志原の惣の市、村々の社家、射手、警固の武士が大巡神社に集まり、大神楽を行いました。後藤正足は『名勝図誌』の記述も引き、この神事はことのほか厳重で、全島の社家が一同に参集したと書き添えています。十一月十五日には国じゅうの大七社の神服をこの社で調え、惣の市が受け取って七社へ届けました。年に一度、島の社家がひとところにそろう日だったことになります。

ある年、その場で争いが起きました。山の大宮司と志原の惣の市が言い争いになる。大宮司は司配の諸家を語らって船橋のあたりに隠れ、惣の市を討ち果たしてしまいました。討たれた惣の市の荒魂は、覩上宮に合祀されます。のちに惣の市の子が大宮司を討ち取り、結局 両家とも滅び、禰宜の家も絶えた。社記はそこまで伝えて終わります。

「惣の市」という職の名は耳慣れません。同じ節に、下社家・神人・市・祝部の名簿が載っています。吉野家が延宝九年(1681 年)十月の時点でまとめたものです。八剣大明神の榊祝部、諸社の射手役、天満宮の祝部、志自岐大明神の宮子、妙見社の宮子、印鑰大明神の市、流八幡宮の祝部、寄八幡宮の宮子。祠官の下に、これだけの役が並んでいました。

市の欄には、女性を指す書き方も並びます。本宮の八幡宮の市は「左近女房」、川北の日吉山王の市は「四郎兵衛の娘くま」。勝本の聖母宮の惣の市は小西国市で、二の市は平田まん。少なくともこの名簿の上では、市の役と女性の名が結び付けて記録されていました。後藤は、抜けや誤記もあろうが、ひととおりの様子をうかがい知るには足りるだろう、と添えています。

大神楽の日の争いも、名簿の役名も、いまの祭からは見えません。社家が郡ごとに分かれ、村ごとに役を割り振っていた時代があって、その仕組みが一年に一度ひとところに集まる日があった。そこで人が死んだ、という話です。

原文から

山の大宮司と志原の惣の市とが言い争いになり、山の大宮司は司配の諸家を語らって船橋のあたりに隠れていて、惣の市を討ち果たしてしまった。

壱岐神社誌 第一編 総説 第五章 第四節 社家の一班(湯岳大巡神社記)

右に記したものには抜けや誤記もあろうが、ひととおりの様子をうかがい知るには足りるだろう。

壱岐神社誌 第一編 総説 第五章 第四節 社家の一班(下社家・神人・市・祝部の結び)

出典: 『壱岐神社誌』大正15年(1926年) 第一編 総説 第五章 第四節 社家の一班。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 寺に配られた五十町 / 同じ日に配られた末寺の名簿

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