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寺に配られた五十町
『壱岐名勝図誌』の第一巻には、島の数を並べた項がいくつも続きます。田畠の広さ、社の数、仏閣の数。そのうち「仏閣の事」は一行しかありません。国中の仏閣はおよそ三百七十八所。内訳は本寺が五か所、その末寺が百四十三か所、末堂が二百二十一所、修験が九か坊です。数だけを置いて、撰者は次の項へ移ります。
中身が出てくるのは、二つあとの「寺領の事」です。書き出しは、いま国中の寺院は総高二百六十九石四斗六升、というものです。続けて撰者は永禄の田帳を引き、壱岐国の仏領は五十町と記されていた、と書きます。永禄年間は、この本が編まれた文久元年(1861 年)より、およそ三百年前にあたります。
そのあとに、寺の名と田の面積の一覧が並びます。いちばん大きいのは安国寺領の十九町八反二丈で、この一覧の中では飛び抜けています。神岳山領が四町二反三丈、妙泉寺領が三町二反四丈、花光寺領が二町二反と続きます。竜蔵寺領は一町二反、定光寺領と長福寺領はそれぞれ一町です。
一方で、一反かそれに満たない名もいくつも挙がります。西光寺領は二丈、伊勢軒領も二丈、慈眼院領と自徳庵領は一反です。寺と院と坊と庵を合わせて三十六の名が並び、額はけた違いの開きをもって書き分けられています。少なくとも寺領の面積には、それだけの差が付けられていました。
一覧を書き終えたあとに撰者が添えたのは、一行だけです。これらはいずれも、いまは減少している。幕末の総高二百六十九石四斗六升が、五十町の田からどれだけ減った額なのかは、この項からは分かりません。田の面積を表す町と、収穫を表す石とでは単位が違い、換算の手がかりを撰者は書いていないからです。読み取れるのは、減ったと撰者が考えていたことまでです。
同じ第一巻には、社に配られた田を扱う項も置かれていて、そちらは水田七百町という額です。ただしこの本自身は、寺領の五十町とこの七百町を比べていません。二つの項は、それぞれ別に数字を挙げて終わります。
原文から
国中の仏閣はおよそ三百七十八所(内 本寺五ヶ所、同末寺一百四十三ヶ所、同末堂二百二十一所、修験九ヶ坊)。
いま国中の寺院は総高二百六十九石四斗六升。
永禄の田帳には、壱岐国の仏領五十町と記している。
これらはいずれも、いまは減少している。