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島の中の三十三所
『壱岐名勝図誌』には、村ごとの巻をひととおり読まないと全体が見えない話がいくつもあります。島の三十三所の順礼もその一つです。堂の説明の末尾に「当堂は国中順礼の何番」という一行が置かれ、それが巻をまたいで散らばっています。順に集めていくと、番号の付いた堂の並びが現れます。
由来は、諸吉村の巻に石髄和尚の説として引かれています。唐津の波多帯刀宗円という人が、常に観音を念じる信心の篤い人であった。ある夜、諸吉村の熊野権現が夢に告げて、観音三十三体を刻んで二郡に配れば功徳は量りしれない、と言った。目がさめて社に参ると、京都の生まれで筑前に住むという仏工が居合わせた。願いを話すと、その仏工も同じ心であると答えた。三年かかって像ができあがり、信者三十三人に一体ずつ与えて、三十三の堂に安置した。以来、僧も俗も札を打ちはじめた、というのです。
お告げのあった熊野権現は、延宝年中に高御祖神社と社号を改めたと、同じ巻に書かれています。夢の場面に出てくる社と、いま高御祖神社と呼ばれている社とを、この本自身が同じものとして扱っているわけです。
番号を拾っていくと、第一番は諸吉村の観音堂で、もと横田里にあったものが竜蔵寺の境内へ移されたとあります。第二番は内坂の観音堂で、百年ほど前からあったものを近ごろ境内へ移した、と梵刹帳を引いて説明されます。第七番は滝上の観音堂です。箱崎村の巻には、二十七番の高源寺、二十九番の江林庵、三十三番の観音堂が並びます。
番号とともに、島の外にある堂の名が添えられていることがあります。立石村の来久田の観音堂には、十九番の札処であり、城州の革堂の移しである、と書かれています。少なくともこの十九番は、島の外の堂を写した札所として説明されているわけです。三十三番の観音堂には「美濃谷汲寺」という別の呼び名が付いていた、とも書かれます。
由来を語る石髄和尚自身が、写しの構えを明かしています。花山院に順礼を勧めるため権現が仏眼上人として現れ、札を打ちはじめさせた。今度の夢もその先例にならったものである、と結ぶのです。島の順礼は、島の外ですでにできていた順礼になぞらえて語られていました。
ただし、この本は三十三の札所を一覧にしてはいません。番号は堂の記事の末尾に散らばったままで、出てこない番号もあります。三十三をそろえて順に歩けたのか、巡る順路が別にあったのかは書かれていません。読み取れるのは、幕末の島に番号の付いた堂があり、人が札を打っていたというところまでです。
原文から
壱岐国の順礼本尊の由来は、波多帯刀宗円居士(唐津 三河守の叔なり)が信心にして常に観音を念じ、多くの人を救う善人であった。
三年で尊像が成就した。ここにおいて信者を招き、三十三人にあたえ、三十三堂に安置す。爾より以来、僧俗はこれを慕って札をうちはじむ。
当堂は国中順礼十九番の札処である。城州 革堂の移しという。
当堂は国中順礼三十三番の札場なり。ゆえに「美濃谷汲寺」と称すといえり。