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比丘尼がひらいた寺
勝本の乗越に志賀山能満寺があります。本尊は虚空蔵菩薩の座像で、弘法大師の坐像と、祠堂の子持観音が並びます。『壱岐名勝図誌』は、この寺の始まりを『風土記』から引き、その末尾に「以上、寺記」と断っています。もとは比丘尼所であった。筑前の博多から比丘尼が来て、はじめて寺を建てた。開山は昌牧比丘尼、その弟子が昌廓比丘尼で、この寺の比丘尼は二代で絶えた、というのです。
比丘尼が絶えて寺が空いたので、神岳山の十八世 頼弁法印が申し受け、真言宗として開き直しました。寺屋敷の御判を願い出たのはこのときが最初で、それ以前は判をもつ寺ではなかった、と続きます。この由来を書き留めたのは神岳山の二十世 進誉法印で、後代のために記す、と署名しています。寺の始まりを、あとから来た側が書き留めた文章です。
そのあとに、浦の人が語り伝えた話が続きます。むかしこの寺崎に比丘尼がいて、いつも阿弥陀の名号を唱えて日を送っていた。あるとき対馬の国主の船がこの浦に寄り、比丘尼が出て安否をうかがった。船を降りて旅の疲れを休め、あたりを歩き、比丘尼のもとに数日滞在したので、白銀を布施した。比丘尼はその銀で一つの寺をいとなみ、対馬国守の位牌を安置した、という筋です。
このくだりは前後の順が入り組んでいて、国主が亡くなったのがどの時点なのかが読み取りにくくなっています。分かるのは、対馬の国主にゆかりのある布施で寺が建ち、その位牌がここに置かれたと浦の人が語っていたことです。比丘尼はのちに対馬へ渡って焼香したいと願い出て、国主の跡を継いだ人がこれを許し、あらためて白銀を布施したとも書かれます。
話の末尾には、扶持の文が引かれています。寛永十三年(1636 年)から、扶持として一年に米三石を渡すので、博多の蔵本で毎年受け取るように、という短い文です。布施の話が語りで終わらず、年に三石という決まった額と、受け取る場所の名まで書き添えられています。
比丘尼二代で絶えたという寺記と、対馬の国主から扶持を受けたという浦人の伝えが、同じ項に並んでいます。撰者はどちらが正しいかを決めていません。寺の来歴として書き残された文と、浦で語られていた話とを、両方そのまま置いています。
原文から
当寺は本来 比丘尼所であって、筑前博多より比丘尼が来て、はじめて寺を造立した。住居の開山は昌牧比丘尼、その弟子 昌廓比丘尼、以上二代にして比丘尼が相い終わった所である。
むかしこの寺崎に比丘尼があった。平生、阿弥陀の名号を唱えて日月を送る。
寛永十三年より、扶持方として一年に米三石遣わすの候間、博多蔵本において、毎歳右の通り請け取らるべき者なり。