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開かない扉と、崩れた橋

立石の覚音寺には行基から始まる縁起があり、撰者はその末尾の一句を、はなはだ非である、と退けます。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

立石村の潟長江に白花苅田院覚音寺があります。この項では、仏像二十四体について像名と作者と寸法が続けて記されています。本尊の千手観音立像は長五尺三寸七分で行基の作、阿弥陀如来の座像は長八尺四寸七分で弘法の作、四天王や諸王の像には運慶や伝教の名が添えられています。

そのあとに「覚音寺縁起」という節が置かれ、漢文の縁起の大意が訳して載せられています。むかし壱岐にはまだ守護がなく、海の向こうの国に近い島なので、智勇のある将を選んで島の司に据えた。縁起はその職を「国史」と書きます。据えられたのは和州芦原親王の血筋の王子五郎である。そのとき行基がこの観音像を彫って五郎に授け、壱岐に安置して国家のよりどころとせよ、と言った。五郎は随兵三人と僕十余人を連れ、難波津から船を出して島に着き、像を申の方角の地に安置した、というのが書き出しです。

のちに聖武天皇の詔で行基が諸国を巡ったとき、島でふたたび五郎に会い、二人で境を巡って壱岐と石田の二郡に分けた、と縁起は続けます。行基は紫の気が天へ立ちのぼる地を見つけ、旧地を捨ててそこへ移り、宝殿を建てて千手観音を安置しました。像の顔は西南に向けられ、諸善神と竜王が現れたので鎮守護法の神として封じ、扉を固く閉じて秘蔵した。以来この扉は容易には開けない、と書かれます。

山を白華、寺を覚音と号し、江の入口に石の橋を置いて度橋と名づけました。人がこちらの岸を離れて向こうの岸へ渡れるように、という意味だといいます。この橋のおかげで他国の賊は侵せず、島の人は謀叛を起こさなかった、と縁起は説きます。

ところがその橋は崩れます。永仁二年(1294 年)四月三日、大きな地震で度橋が落ち、堂もなかば壊れました。仏像も法器も散り散りになった、と書かれます。その後、文禄の年に朝鮮へ兵が出されたときには多くの兵船がこの島に繋がれましたが、度橋は、柱石を海の中に残すだけになっていました。荒れた寺に住みついた庸巌昌的が寛文七年(1667 年)に再興を誓い、元禄と宝永に仏像を修復して、宝永二年(1705 年)にこの縁起が清書されます。

読ませるのは、そのあとです。撰者は縁起の大意を載せたうえで、末尾に自分の按を付けました。『元正天皇紀』を引き、養老六年に壱岐や対馬の司に欠員が出れば大宰府の官人から選んで補うと定められたこと、諸国の司の任期は四年を限りとすることを並べます。そして、それならば王子五郎の家が二十代にわたってその権を執ったというのは、はなはだ非である、と書きます。

縁起を削らずに残し、そのうえで一句だけを名指しで否定する。この寺の項は、幕末の撰者が伝来の文章とどう付き合っていたかが、いちばんはっきり出ている場所の一つです。什物として挙げられた唐鏡の銘についても、至元四年は暦応元年(1338 年)にあたり、この本を書いている文久元年(1861 年)まで五百二十四年になる、と年数を数え直しています。

原文から

石梁を江頭に置いてこれを「度橋」と名づけたのは、人をしてこの岸を離れて彼の岸に到らしめようとしたためである。

巻之二十 壱岐郡立石村之部(覚音寺縁起)

すなわち封じて鎮守護法の神となし、両戸を堅く閉じ、厳密に秘蔵して今に到る。容易に開帳することを許さず、界境の内を鎮めることを畢えた。

巻之二十 壱岐郡立石村之部(覚音寺縁起)

永仁二 甲午 年四月三日、大地震が動いて度橋が崩れ墜ち、殿堂も半ば敗壊した。

巻之二十 壱岐郡立石村之部(覚音寺縁起)

それならば二十代にわたって国史の権を執ったというのは、はなはだ非である。

巻之二十 壱岐郡立石村之部(覚音寺の条・撰者の按)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之二十 壱岐郡立石村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 灯明坊から別当へ / 鷺と呼ばれた城

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