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鷺と呼ばれた城

湯岳の城跡には呼び名が四つあり、そのうちの一つは、城に宿るという白鷺から来ています。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

湯岳村の今坂に、城の跡があります。『壱岐名勝図誌』はその項を、呼び名を並べるところから始めます。鳥城とも、渡城とも、戸城とも書く。別の名を鷺城という、と。一つの跡に四つの書き方が並んでいて、撰者はどれが正しいとも決めていません。

住んだ人については、平治年間(1159 年から 1160 年)に長田壱岐守 平忠政、寿永のころ(1182 年から 1184 年)はその子の忠致と二代が居たのだろう、と書かれます。そのあと中むかしには志佐氏が居城した、とも。造りを記した文もあるのですが、寸法の字が当方の写しでは読み取れず、そのままは写せません。読めるかたちで残っているのは、いまは田地になったこと、その中に東西二十一間、南北四十三間の山があることの二つです。撰者が引く『郡鑑』からは、石垣はない、六間ほどの畠がある、という二文が読めます。

この項でいちばん長いのは、里の古伝を写した段です。ところが当方の写しでは、ここに読み取れなかった字が多く残っていて、話の筋を通して追うことができません。断片として読めるのは三か所です。葬った所は定光寺の境内である、という一文。その石塚を「馬形石」と言い伝えた、という一文。そして岡の名の由来を述べた一節の結びで、それでその岡を名づけて世人は「ほこぬき」という、と書かれています。誰を葬ったのか、その岡で何があって名が付いたのかを述べた文は読めないので、ここでは補いません。

同じ項には、別の書からの引きも置かれていました。『吉野家譜』の一節。こちらも前半は読めない字が続きます。読めるのは二か所です。ただしその霊は白鷺である、という一文と、満願の日に城の霊が雌鷺に化けて城の中から飛び出た、そして幡巴を立てた所のあたりの川を「幡巴川」と呼ぶ、という一節です。誰が何をして、その満願の日を迎えたのかを書いた文は読めません。

読めるかけらのうち、二つは互いに結び付きます。城の別名が鷺城であること。『吉野家譜』が城の霊を白鷺だとし、その鷺が飛び出た先に「幡巴川」という川の名を置いていること。名と鳥が、同じ項の中で行き来しています。いっぽう「ほこぬき」の岡は、名の付いた理由を述べた前段が読めないので、鷺の話と同じ由来だとは言えません。結びの一文だけを、そのまま置いておきます。

地形について、項の終わりのほうに一文があります。永仁以前(1293 年より前)は城から南は海であって、左右は入江であったという記述です。いまの田は、もとは水だったことになります。撰者が引く『海東諸国記』からは、書に「壱岐守護代官 真弓兵部少輔 源武」と称す、という一文が読めます。海に開いていた土地と、島の外まで届く肩書とが、同じ項の中に並んでいます。

なお、ここに扱った項には、機械で読み取れなかった文字が当方の写しに多く残っています。判読できた文だけを引用し、読めない文は本文でも扱っていません。落とした結果として話が飛んでいる箇所は、そのつど断りました。

原文から

鳥城とも、渡城とも、戸城とも書く。一名 鷺城。今坂に属す。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部(戸城の書き出し)

それでその岡を名づけて世人は「ほこぬき」という。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部(戸城・古伝の一説)

ただしその霊は白鷺である云々。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部(戸城・『吉野家譜』)

満日の時、城霊は化して雌鷺となり、城中より飛び出た云々。その幡巴を立てた所のあたりの川を号して「幡巴川」という。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部(戸城・『吉野家譜』)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之六 壱岐郡湯岳村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 六人衆という道 / 塩津留の城と、姫の池

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