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六人衆という道

湯岳の道ばたに残る塚の名は、六人が一度に討たれた夜の話から来ていると、村の老人が伝えていました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

『壱岐名勝図誌』の湯岳村の巻に、丘上山という短い項があります。書き出しは一行です。「六人衆」という道の傍らにある、と。入り口は地形ではなく、道の名でした。続けて、この山に塚がある、上に松が生える、村の老人が伝えていう、と書いて、そのまま話に移ります。撰者が自分で見たのは塚と松までで、あとは聞き書きだ、という区切りがここに置かれています。

伝えの書き出しには読み取れない字が多く、当方の写しでは、六人が何者で、何をしたのかを述べた一文を写せません。読めるところから拾うと、話は途中から始まります。六人衆に随従しなかった者がいた。ゆえに六人はその者を討とうと謀った。名は助左衛門といいます。

次に動くのは助左衛門ではなく、その僕でした。僕は六人のもとへ行って持ちかけます。自分は主人に遺恨がある、ひそかに忍んで来て討ってくださるようお願いしたい、と。六人はまことに渡りに舟を得たようだと喜んで、僕の家へ行こうと約束し、ある夜やって来ました。ここまでが、読めるかたちで残っている段です。

家に着いた六人へ、僕はこう指図します。灯火を消して戸を閉じ、伏せて待っていてください。自分は主人の家へ行って、よろしい時を知らせましょう、と。そのあとに一文はさまるのですが、そこは読めません。話が終わるのは、読める次の一文です。助左衛門は喜んで僕の家に到り、窓から鉄砲で六人を撃ち殺した、と。

仕留めたあとの始末を書いた一文も、地名の部分が読めないので写せません。項の結びは、それよりこの所を世俗に「六人衆」という、という一行です。塚と松と道の名が残り、そこに至った経緯だけが伝えとして添えられている、という形になります。

この話の運びは、当事者ではなく僕が組み立てているところに特徴があります。恨みを装って敵を招き、待たせ、灯を消させ、そのあいだに主人を呼びに行く。撰者は評言をいっさい付けず、老人の言葉のままに、会話を二度そのまま写しています。地誌の一項として書かれているのは、あくまで道の名の由来です。人が六人死んだ夜のことが、地名の説明として書き留められています。

なお、この項には機械で読み取れなかった文字が当方の写しに残っています。判読できた文だけを引用し、読めない文は本文でも扱っていません。落とした結果として話が飛んでいる箇所は、そのつど断りました。

原文から

この山に塚がある。上に松が生える。村の老人が伝えていう。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部(丘上山)

「小子は主人に遺恨がある。ひそかに忍び来り給うて討ち給わんことを請う」。六人はまことに渡りに舟を得たようだと喜んで、かの僕の家に到ろうと契って、ある夜来た。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部(丘上山・村の老人の伝え)

かの僕がいう。「灯火を消して戸を閉じ、伏して待ち給え。我は主人の宅に行って、よろしい時を告げよう」。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部(丘上山・村の老人の伝え)

助左衛門は喜んでかの僕の家に到り、窓より鉄砲をもって六人を撃ち殺した。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部(丘上山・村の老人の伝え)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之六 壱岐郡湯岳村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 塩津留の城と、姫の池 / 玉塚に碑が立つまで

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