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塩津留の城と、姫の池

国分の「郡」と呼ぶ一画は城の跡で、屋敷の名も、入水した姫の池も、幕末まで地名として残っていました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

国分村に「郡」と呼ばれる一画があります。『壱岐名勝図誌』はここを城の跡として立て、一名を「塩津留城」という、天満宮の東にあり、と書き出します。撰者はそのうえで、東西の界と南北の界を道の名で示し、周囲は七町四十四間半、と測った数を並べました。空堀は三重ありました。本丸は東西三十一間余、南北十六間。堀の指し渡しや高さまで、間と尺と寸で書き留めてあります。

面白いのは、そこに残っていた地名のほうです。西には「台所屋敷」と呼ばれる区画があり、ほかに「郡前の司屋敷」「城の越屋敷」という所があります。西の方には「城門」と見える景色が残っている、とも書かれます。殿やしきと古館の跡は、堀とともにはっきり残っていました。撰者はそこへ割注を一つ添えて、いまの本社の地を古館というのも城内だったからだろう、と書いています。畠になった土地の名を、城の間取りとして読み直しているわけです。

ほかの書からの引きも短く並びます。『壱岐郡鑑』は、郡城は国分村にあって四方に堀があり、頂上に一反ほどの畠がある、と記すだけです。『続風土記』はもう少し踏み込んで、この城が塩津留氏の居城であることは明らかだと言い切ります。その根拠が、また地名でした。城の北に「小林坊」という民居があり、その北に「観音寺」という寺がある。どちらも城下なので、塩津留氏の一族が住んだ跡であることははっきりしている、というのです。『海東諸国記』に「塩津留松林院」「塩津留観音寺」と出ているから、とも添えます。

項の終わりに、池が一つ出てきます。殿屋敷の艮にある池で、里の老人はこう伝えていました。むかし塩津留姫という人が身を投げた池だという。ただし撰者は「といいふか」と書いていて、名にも話にも念を押していません。そして、いまは埋まって僅かばかりの水溜になっている、と続けました。

唐田の界には、鶴翔城という別の城跡もあります。こちらは『続風土記』の記述をそのまま引く形で、東西四町余、南北三町ばかり、本丸の石垣の周囲は二町半、丑寅の方に門の跡がある、と書かれます。その中にある石の壇を、里では「城八幡」と呼んでいました。塩津留氏の一族が居た所だろうか、という『続風土記』の推量に、撰者は自分の見立てを添えます。地理を考えると人の住んだ所と見える、城取りをしたものと思われる、石垣の跡なども残っている、と。

二つの項に共通しているのは、書物より先に土地の名を見ていることです。誰が住んだかを決めるとき、この本がまず持ち出すのは屋敷の呼び名であり、坊の名であり、寺の名でした。池の由来だけは、里の老人の言葉として、決めないまま置かれています。

なお、当方の写しでは、この二つの項に読み取れなかった文字がほとんどありません。同じ上冊でも、隣の巻には読めない箇所が多く残っています。ここで引いた文は、いずれも判読できたものです。

原文から

一名を「塩津留城」という。天満宮の東にあり。

巻之五 壱岐郡国分村之部(郡城跡の書き出し)

郡城は国分村 四方に堀あり。頂上に一反程の畠あり云々。

巻之五 壱岐郡国分村之部(郡城跡・『壱岐郡鑑』)

また城の北に「小林坊」という民居あり。またその北に「観音寺」という梵刹あり。いずれも城下なれば、塩津留氏の一族の居蹤たること顕然たり。

巻之五 壱岐郡国分村之部(郡城跡・『続風土記』)

里老いう、むかし塩津留姫といいふか、入水せし池となむ。いまはうつまりて纔かばかりの水溜となれり。

巻之五 壱岐郡国分村之部(郡城跡・池)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之五 壱岐郡国分村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 玉塚に碑が立つまで / 筒城浜のにしき貝

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