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玉塚に碑が立つまで
深江村の田川のほとりに、小高い所があります。東西三十間、南北二十間ばかり。頂上に古墳があって、里ではこれを「玉塚」と呼んでいました。『壱岐名勝図誌』の項も、そこまでを三文で書いて終わりにできたはずです。実際にはこの項は、巻の中でも長いほうに数えられます。
長くなった理由は、撰者が自分の名で按じ書きを立てたからです。正足按ずるに、として『続日本紀』を引き、この塚は国史に名の残る女性の墓ではないか、と述べます。ただし引いた本文は、当方の写しでは冒頭の数文が読めません。何年の記事なのか、その人が何歳で何を通したのかを書いた文が、そこに含まれています。読めるかたちで残っているのは二文だけです。夫の墓に仕えることが生きているときと変わらなかった、という一文と、けだしその塚がこれであろう、という結びです。
按じ書きは続けて、山の東にある比売大明神は、その人の霊を祭ったものだろうとも述べます。この一文も当方の写しでは読めません。ただし同じことが、あとに載る碑文のほうには読めるかたちで残っていました。玉塚山の東に神祠があって「比売大明神」と称し、女体の木像を安んじている、という一節です。
碑が立つまでの経緯を書いた文も、途中が読めません。読める範囲でたどると、景興という人がこれを上へ申し上げ、そこで臣高行が碑記を撰するよう命じられました。碑文はその高行の筆です。書き出しは、壱岐州深江村、玉塚山に古墳あり、土人相伝えて「玉塚」と称す、その由を知る者なし、という三句で、里が名だけを伝えて理由を失っていた状態から始めています。
碑文の中ほどには、名の字についての注が入ります。この段も書き出しは読めませんが、続く四文は残っていました。文に小異あり。「直」はその姓であって、『日本史』は「直」を「真」に作り、古本の『続日本紀』は「壱岐直」に作る、というのです。石に刻む文の中で、写本ごとの字の違いまで書き分けました。
顕彰の理由のほうは、別の段から読み取れました。皇朝の口分田の法では男女ともに田を給わるので、租を免じてこの人を優遇したのだ、という説明があり、続けて、伝にいわく、忠臣は二君に事えず、烈女は二夫に更えず、と引かれます。碑を立てた側が何を賞めたかったのかは、この二文で足ります。
項の終わりに、系譜の一文が添えてあります。壱岐氏の系譜を考えると、玉主売は雷大臣命の孫である壱岐直真根子連から十六世、壱岐直玉守の女であって、遠祖の天児屋根命から三十世の孫にあたる、というものです。碑文のほうも、この名を「玉」はその名なり、と一字ずつ確かめていました。名も知れぬ塚が、国史の記事と、島の古い氏の系譜と、目の前の神祠に結び直されて、そのうえで石が立ちました。
なお、碑の年月と署名を記した行は、当方の写しでは読み取れません。この項に引いた文は、いずれも判読できたものです。読めない文は本文でも扱わず、話が飛ぶ箇所はそのつど断りました。
原文から
この山は東西三十間、南北二十間ばかりの小高い所である。頂上に古墳がある。里俗は「玉塚」と称する。
壱岐州深江村、玉塚山に古墳あり。土人相伝えて「玉塚」と称す。その由を知る者なし。
かつ玉塚山の東に神祠あり、「比売大明神」と称す。女体の木像を安んず。
文に小異あり。「直」はその姓なり。『日本史』は「直」を「真」に作る。古本『続日本紀』は「壱岐直」に作る。