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村の名の起こりを三つ
『壱岐名勝図誌』は、村ごとの巻をかならず概況から始めます。田と畠の反別、家の数、人の数、神社と仏閣の数。そのあとに、村の名の起こりが置かれることもある。上冊の後ろのほうにある三つの村を並べてみると、由来の説き方が三通りに分かれていて、どれを採るかで撰者の手つきが変わるのが分かります。
湯岳村では、古い書に寄せて説きます。村の名はもとは「伊宅」といったといい、それは『和名抄』に載るとおりである。しかしいずれの頃からか「湯岳」といったのであろう。『海東諸国記』には「唯多只」と書いてある、と。二つの書名を並べて、字の移り変わりだけを示す書き方でした。理由については、湯が湧いた話が続くのですが、当方の写しではその一文が読めません。読めるのはその先で、それによって時の人がその所を「湯屋坂」と名づけたこと、いまも「湯の尻」「湯蓋山」という所があることの二つです。湯にちなむ地名が周りに残っている、という証拠の出し方になっています。
深江村では、地形の変化から説きます。撰者は『続風土記』を引きます。東河内から立石の潟や長江へ海水が通っていて、船が行き来していた。その後、地震で山が崩れて内海が埋まったが、しばらくは石田・池田・湯岳・筒城のあいだに大きな入り江があって海水をたたえていた、というのです。そのなかでもこの村はとくに深かった、という一文は読めませんが、結びは残っています。ゆえに「深江」といったのであろう、と。いまは水田になっている土地を、かつての水の深さで説明しています。
筒城村では、伝えを二つ並べます。一つは海を渡って来た神の話で、名の付いた場所がいくつも出てくるのですが、こちらは社の解説の面がすでに扱っているので、ここでは踏み込みません。村の名そのものを説く段は、その神が丘に登って村の景色を褒めたという話に続きます。ただし、褒め言葉を書いた文が読めません。名の理由にあたる部分が抜けたままになります。
この村について、読めるかたちで採れたのはもう一つの説のほうでした。またいう、村の中に「小筒の城」という古城の跡がある、と。城の名から出た名かもしれない、という別案です。撰者はどちらが正しいとも書いていません。
三つを並べると、由来の根拠がそれぞれ違います。湯岳は書物の字、深江は地形の履歴、筒城は伝えの言葉と、もう一つの説。撰者はどれについても「であろう」で止めていて、断定を避けています。名の理由が一つに決まらないまま、候補が二つ並んで残っているのは筒城だけです。
概況の末尾には、その村で使われている里の小さな名が並びます。湯岳の巻には、本村里・今坂・山田・興原・射手石の五つが挙がっています。村の名の由来を説いたあとに、いま人が呼んでいる名を書き並べる。この順番が、地誌としての立て方をよく表しています。
なお、ここに扱った三つの概況には、機械で読み取れなかった文字が当方の写しに残っています。判読できた文だけを引用し、読めない文は本文でも扱っていません。落とした結果として話が飛んでいる箇所は、そのつど断りました。
原文から
村の名は、もとは「伊宅」といったという。すなわち『和名抄』に載るとおりである。しかるにいずれの頃からか「湯岳」といったのであろう。『海東諸国記』には「唯多只」に作る。
東河内より立石の潟・長江に海水が通い、船舶が往来した。その後、地震のため山が崩れて内海が埋まったが、しばらくは石田・池田・湯岳・筒城のあいだに大きな江があって海水がたたえていた。
またいう、邑中に「小筒の城」という古城の跡がある。