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浦にも海の境があった
『壱岐名勝図誌』は村ごとに巻を立てた地誌ですが、海に面した村には「浦」という別立ての項が置かれています。浦は村の一部でありながら、田の石高ではなく戸数と人の数と船の数で書かれます。数え方が村と違うのです。
郷ノ浦の項は、民戸が二百十六烟、そのうち酒屋が六烟と糀屋が七戸、人が九百六十九人、牛が三十六頭、商船が二十七艘、鰯網船が二艘、伝通が三十六艘と並べます。印通寺浦は浦居が二百八十二烟、人が一千二百五十六人、船が七十二艘で、その内訳は大が二艘、中が十艘、伝道が六十艘です。勝本浦は民戸が四百十九烟、人が二千二百四十二人、舟が七十七艘で、うち高船が十七艘、博通が六十艘とあります。町の広さも坪で押さえてあって、勝本浦の町居は一万六千四百三坪あまり、印通寺浦の浦坪は九千八百二十一坪あまり、郷ノ浦の地は八千八百九十二坪半です。
数え上げが終わると、どの浦の項も同じ形で結ばれます。沖のどこからどこまでがその浦の海か、という一文です。郷ノ浦は東を初山の江豚鼻に、西を綿浦の当の崎に限る。印通寺浦は東を筒城の唐船と矢台崎に、西を初山の江豚鼻に限る。勝本浦は東を筥崎と新城の境の黒平場と烏帽子石に、西を本宮村の産屋と瀬崎に限ります。
三つの浦の境を並べると、噛み合っているのが分かります。郷ノ浦の東の端と印通寺浦の西の端は、どちらも初山の江豚鼻です。同じ岬が、二つの浦の境として共有されています。ただし、その境がどういう手続きで決まったのかは、原典のどこにも書かれていません。
境の内側の島についても、印通寺浦と勝本浦は同じ言い方をします。沖の島々は当浦の知る所である、と。誰の持ち物かではなく、誰が知っている海か、という書き方です。漁場も航路も、知っている者の手のうちにありました。
幕末の壱岐で、浦は陸の一区画であると同時に海の一区画でした。海のどこまでを自分の側と見るかを浦ごとに書き留めたこの三つの一文は、港のある土地が海をどう分けていたかを示す、いちばん短い記録です。
原文から
洋堺は、東は初山の江豚鼻に限り、西は綿浦の当の崎に限り、いまも町の会所壇などという所あり。
浦の界は、東は筒城の唐船・矢台崎に限り、西は初山の江豚鼻に限り、澳の嶋々は当浦の知る所なり。
洋界は、東は筥崎邑と新城村との界、黒平場・烏帽子石に限り、西は本宮村の産屋・瀬崎に限る。澳の島々は当浦の知る所である。