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灯明坊から別当へ
勝本浦に聖母山神皇寺があります。本尊の阿弥陀如来は秘仏で閉帳なので長さも分からない、と『壱岐名勝図誌』は書きます。寺地は縦十七間二尺、横十四間。中興は天正八年(1580 年)で、開山は頼秀。寺産は十石で、国主からの寄附状が五通残っています。ここまでは、ほかの寺の項と同じ書き方です。
変わっているのは、そのあとに置かれた「神皇寺の来由」という節です。『神社考』から引かれたその文は、この寺がもともと寺ではなかったところから語り起こします。大永二年(1522 年)三月、社の祝部が仏法に帰依して髪をおろし、妙覚と名のった。鹿下の井川のあたりに住み、灯明田を耕して灯明の役を勤め、宮の掃除などをした、というのです。
その子孫は半俗のまま妻帯で跡を継ぎ、庵室を西住院と号しました。のちに竜宮寺と改め、建て直すたびに社の近くへ少しずつ移していったので、世間では宮司聖母坊と呼ぶようになります。名も場所も、代を重ねるごとに社のほうへ寄っていったことになります。
引かれた文は、この経緯に手厳しい評を付けています。先例があってのことではなく、ただ広縁の灯明坊である。何宗と決めたこともなく、法者や道人であるにすぎない。神岳山の古い帳面にも、西住院は半俗であって真言ではないと記されている、と書くのです。寺として認めがたい、という立場からの記述です。
形が定まるのは、寛永五年(1628 年)六月です。竜宮寺の住僧 源覚がはじめて神岳山を本寺と定め、住院は半俗であって真言宗ではないと決めました。所属する先と、決めていなかった宗旨とを、このときようやく確定させたわけです。
訳文はここで什物の図の説明をはさんで途切れ、そのあとに続きが出てきます。名を神皇寺と改め、願いによって寺領十石となり、寛保元年(1741 年)七月二十八日にはじめて聖母宮の別当職となった、という一文です。灯明田を耕していた妙覚から数えると、二百年あまりかかっています。
社の灯明を守る役から始まった半俗の家が、寺号を得て、本寺を定めて、最後に社そのものを預かる職に就く。神皇寺の項は、その順序を年号入りで並べています。この寺については、寺号も宗旨も定まらないうちから、社の灯明と掃除を勤める人がいた、とこの項は語っています。
原文から
この神皇寺の来由は、大永二年三月、祝部が仏法に寄依したことによって法体して「妙覚」と名のり、鹿下の井川のあたりに居住して、灯明田を耕作して灯明の役を勤め、宮の掃除などをなした
右に謂うように先例なく、ただ広縁の灯明坊である。何宗と極めたこともなく、法者・道人であるゆえ
寛永五年六月、竜宮寺の住僧 源覚がはじめて神岳山を本寺となし、住院は半俗にして真言宗にあらずと極め