このページの更新 10/16 16:05
同じ日に配られた末寺の名簿
延宝四年(1676 年)九月十一日という日付が、『壱岐名勝図誌』の別々の巻に二度出てきます。どちらも国主 松浦鎮信が寺へ宛てた証状で、文面はほとんど同じです。この寺の末寺はこれだけである、公儀から仰せ出された趣を堅く守り、末々まで違背のないようにせよ。名簿を添えて、そう言い渡す形です。
一通は、武生水村の華光寺に宛てられています。同じ巻は、この寺を一国の曹洞宗の本寺二つのうちの一つとして挙げています。証状に添えられた名簿は村ごとに区切られ、武生水の十六か寺を先頭に、渡良・中通・湯岳・半城・長峯・立石・住吉・志原・初山と続きます。数えると六十八の寺と庵と軒の名が、十の村に分けて並びます。
もう一通は、新庄村の神岳山本宮寺に宛てられたものです。こちらの名簿は新城の九か寺から始まり、勝本浦の神皇寺・地命寺・能満寺、長嶺の二か寺、小牧と半城の各一か寺で十六か寺になります。証状の末尾には、さらに三つの寺と坊が書き足されています。本宮寺には寺領二十石が付いていて、国印状が五通あったと記されます。
本寺は五つあったと、第一巻の「仏閣の事」が数えています。そのうち諸吉村の竜蔵寺について、この本は五か本寺の一つであり、また曹洞の両本寺の一つでもあると書きます。開基は明応元年(1492 年)の州翁禅益、のちの開山は長門国大寧寺の異雪慶珠で、その異雪はもと島の物部村の百姓の子だったといいます。本寺の格は、島の外の大きな寺との縁でも語られていました。
では、なぜ同じ日に名簿が配られたのか。この本は理由を書いていません。証状の文面が言うのは、公儀から仰せ出された趣を守れ、ということだけです。書かれていない事情を補って読むより、同じ日付の紙が二通残っていて、どちらも末寺の範囲を確定させる形になっている、というところまでを受け取るほうが確かでしょう。
名簿が村ごとに区切られている点も読みどころです。名簿は十の村にまたがっており、一つの本寺の系統が村の境を越えて広がっていたことが分かります。幕末の撰者は、その系統を各村の巻に分けて書き写しています。二通の証状を突き合わせるには、巻をまたいで読む必要があります。
原文から
右の寺数は華光寺の末寺として、公儀より仰せ出さるるの趣、堅く相守り、末々において違背これなきよう、申し付けらるべき者なり。
右の寺数、本宮寺の末寺たるべく候。公義より仰せ出され候趣、堅く相守り、末々に於て違背これなきの様、申し付けらるべき者なり。
竜蔵寺は「大淵山」という。壱陽五ヶ本寺の一つである。