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陰陽道に従う家が二十戸
『壱岐神社誌』の第六章は、神道をかき乱したものを二つ挙げます。一つは本地垂迹説、もう一つが陰陽道です。後藤正足の筆は、陰陽道に対してとりわけ厳しくなります。
何を説いたのかが並べてあります。八王子とは、牛頭天王が娑竭羅龍王の娘を娶って生んだ子で、それぞれが方位をつかさどるから、犯せば大きな咎めがあるという。大歳神・大将軍・歳刑神・大陰神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神の八将神です。これを日本の史書にいう三女神・五男神へ無理に結び付けた、と後藤は書きます。三宝荒神を素戔嗚尊の御子が生んだ神とするのも、同じ手口だといいます。
暮らしにいちばん響いたのは金神でしょう。八将神のほかでもっとも恐れるべき方位の神とされ、この方角へ向かって土木や普請を起こすことを忌みました。方角は年の干支で動きます。甲と己の年は午未申酉、乙と庚の年は辰巳、丙と辛の年は戌亥寅卯、戊と癸の年は子丑申酉。不吉な向きを「金神向き」といい、避けることを「金神除け」といい、金神の方位でも障りの出ない日を「金神間日」と呼びました。ほかに五行・八専・犯土・土用・有卦・無卦。家を建てる日取りが、これで決まっていたことになります。
壱岐で陰陽道が行われはじめた年は、分かっていません。後藤は、室町幕府の末の明応のころに起こったらしい、と書くにとどめます。江戸幕府の時代には京都の土御門家の系統に属して「天社神道」を唱え、神道補佐職と称して方位の吉凶を占い、筮を立てました。元禄年間には、これに従う家が島に二十戸あまりあったといいます。
家業の中身も残っています。易占、梅花心易、年暦、六甲、八卦、六壬、通書、長暦。祈祷のほうは火鎮祭、疫神祭、五龍祭、荒神祭、竈神祭、厩鎮、招魂祭、日待、月待、年星祭、水神送。野狐除けの符、小児護身の符、諸悪消滅の符。装束まで決まっていて、烏帽子は左折り、紐は紙より、狩衣は黄色でした。元禄十一年(1698 年)三月一日には城代の長村三左衛門から、土御門家の掟に背いてはならない、異法や新法は一切勤めてはならない、と申し渡されています。
終わりは明治四年(1871 年)に来ました。御一新にあたって職を差し止められ、平民として帰農せよと命じられた九人が、嘆願を出します。官衣を着てきた自分たちは手仕事に馴れておらず、すぐには親や妻子を養えない。せめて唯一神道へ引き直してほしい、と。平戸では同職の三人が唯一神道へ移ることを許されたと聞いた、とも書き添えました。
これに対して、島の神職の側は反対の伺いを出しています。壱岐は平戸と違って掛かりの氏子が少なく、祠官も下社家も農業をしてようやく凌いでいる。近ごろは山伏まで神職に転じており、そのうえ陰陽師まで加われば職業が立ちゆかない、と。天朝から社務の職掌について達しがあったので転職の願いは認められない、という裁定が下り、陰陽師はついに神職になれませんでした。占いの家も、それを拒んだ社家も、どちらも食べていけない側にいたことになります。
原文から
陰陽道の説が神祇道を混乱させたのはもちろん、一般民間の慣行にもたいそう悪い影響を与え、惑わす説を広めて、その影響はきわめて深刻であった。
官衣を着てまいりました私どもは生まれつきそれに馴れておらず、すぐに帰農して手仕事をし、親や妻子を養って世を渡ることができかね、まことに途方に暮れております。
近ごろから山伏なども神職に転じており、このうえ元の天社神道の者まで神職に引き直されるとなれば、職業が立ちゆかなくなります。