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竜宮からもらった萩原

年の暮れごとに海へ松と年縄を供えた夫婦が竜宮へ招かれ、望んだ宝で長者になりました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

諸吉村の海辺に長者原という平原があり、そこに二つの塚がありました。里の人は「長者の墓」と呼んでいます。撰者は寸法を測って書き留めました。一つは縦一丈、横八尺。もう一つは縦一丈六尺、横一丈二尺。二つの墓のあいだは二十一尺です。そのうえで、古老の伝える話を続けます。

むかしこの所に長者の夫婦がいました。貧しかったけれども心が正直で、いつも竜宮を信じ、毎年 年の暮れになると海辺へ出て門松と年縄を竜神に供えていました。ある年の暮れ、いつものように供えて家へ帰り、うれしい気持ちのまま夜更けにまどろんでいると、誰とも知れない者が夫婦を呼び起こします。名を問うと、竜宮の使いだと答えました。毎年 松と竹と年縄を供える誠を竜神が深く感じ入ったので、今夜あなたがたを竜宮へ召す、迎えに来た、というのです。

夫婦は喜びましたが、海の中を行くのは難しかろうと辞退します。使いは、私に付いて来れば潮がおのずと分かれて海の中に道ができる、と言いました。付いていくと、そのとおりに潮が分かれて道が現れます。道すがら使いは教えました。竜宮でもてなしを受けたあと、望みのままに宝を与えようと言われるはずだ、そのときは「はぎはら」を望みなさい、と。

竜宮での饗応のあと、竜王は約束どおり宝を望ませました。夫婦が教えのとおり萩原を請うと、竜王は、萩原は竜宮で一、二の重宝である、けれども望みにまかせて与えよう、と言って渡します。夫婦が萩原を連れて帰り、その頭をなでて「家と四方に四万の蔵がほしい」と言うと、たちまち美しい家と蔵ができ、宝が満ちて長者になりました。もう一度なでて「夫婦二八の姿になれ」と言うと、二人は若い姿に戻ります。願ったことは何でも叶いました。

ただし萩原には決まりがありました。草履を履かず、雨の日も土足のまま座敷へ上がる。そして夫婦が睦み合うことを戒める。ある時 妻が夫に言います。萩原は振る舞いの賤しい者だ、老いを若さに変えて寿命も限りないけれども、夫婦の道を戒めるなら二人そろって生きていて何が楽しいのか。蔵には金銀も米銭も宝も満ちたのだから、もう十分だ、急いで萩原を竜宮へ返してください、と。夫はそれを聞き、承知して萩原を返しました。すると四方四万の蔵はもとの柴の庵に戻り、二人は白髪の老人に返って、ほどなく命を終えました。その墓が、潮の差し引く浜辺にあるといいます。

この話には続きがあります。長者はもと筥崎村の溜水に住み、次に谷江の河泊へ移り、その後 長者原に住んだので「溜水長者」と呼ばれた、という説です。塚そのものについても記録があります。もとは玉屋のあたりにあったのを、寛文のころ、長崎の町人 嘉福という者が長者原に鯨組を置いたときに掘ってみたところ、両方の墓からそれぞれ金の膳一枚と金の碗一具が出た。そこで竜蔵寺と諸吉の寺院の僧を招き、いまの場所へ移した、というのです。

隣の項の「絵岩」にも、この話が影を落としています。長者原の東西の海岸にある、木や草や魚の紋様の浮いた岩です。里の老人は、萩原が竜宮へ帰るとき屏風をたたんで浜へ捨て置き、それが岩になったのだと伝えていました。撰者はこの説について、取るにたらない、と一言で退けます。そして貝原益軒の記述を引いて、これは花紋石の類いであり、会津や信濃や出羽にも木の葉石がある、と並べました。伝説はそのまま載せ、そのうえで別の説明を隣に置く。この地誌のいつもの手つきです。

原文から

むかしこの所に長者夫婦ありけり。身貧なりといえども心正直にして、常に竜宮を信じ、毎年 海浜に臨みて門松・年縄を竜神に奉りける。

巻之二 壱岐郡諸吉村之部 長者原(『続風土記』所載の大意)

我はこれ竜宮の御使いなり。年ごとに竜宮を信じ、松・竹・年縄を奉る志の誠を竜神が深く感じ給うがゆえに、今夜 汝らを竜宮に召すなり。

巻之二 壱岐郡諸吉村之部 長者原

この原の海浜に二つの塚あり。里俗が相伝えて「長者の墓」という。一つは縦一丈、横八尺。一つは縦一丈六尺、横一丈二尺(両墓の間 二十一尺)。

巻之二 壱岐郡諸吉村之部 長者原

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之二 壱岐郡諸吉村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

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