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神輿が動きはじめた年
神輿が村を練り歩く神幸について、社ごとにいつ始まったかを記した帳面が、社家に伝わっていました。大正十五年(1926 年)の『壱岐神社誌』は、その帳面をもとに年をひとつずつ並べています。
著者はまず、分からないことを断ります。神幸のはじまりについては資料がなく、推し量るべき伝説も残っていないので、中古より前にさかのぼって述べることはできない。そのうえで、近代の移り変わりをうかがうには足りるものとして、この帳面を引きます。記されているのは本社三十二、祠官三十六人ぶんです。
はじめに挙がるのは五社です。聖母宮、本宮の八幡宮、筒城の八幡宮、箱崎の八幡宮、新城の若宮大明神。神輿の数と、輿ごとにどの神を遷すか、遷すのは神主か御灯かまで書かれています。筒城の八幡宮は三挺で、三の輿と一の輿は御灯が、二の輿は神主が神を遷しました。この五社について帳面は、昔から絶えることなく神幸があり、神輿のはじまりは分からない、と記します。
そのあとに続くのが、始まった年の分かる社です。国津意加美神社は元禄二年、天手長男神社は元禄五年、熊野権現は元禄四年、鏡岳権現は元禄七年、国片主神社は天和三年。享保に入ると数が増えます。輿神社は享保八年に再興で、これは文禄・慶長の役で神輿が壊れたまま廃絶していたのを、この年に再開したものだと注が付きます。高御祖神社・国津神社・兵主神社・妙見社の四社は享保九年、比売大明神と流八幡宮は享保十年。下って弥佐支刀神社が明和三年、爾自神社が明和八年、天満宮が寛政六年です。
年の並びを見ると、元禄から享保にかけての四十年ほどに集まっていることが分かります。ただし帳面は、なぜこの時期に集まったのかを書いていません。書いてあるのは社の名と年だけで、理由の説明はどこにもありません。
中止と再開の記録もあります。大国玉神社の神幸は、『壱岐続風土記』によれば寛永・寛文年間より前にいったん中止し、その後 文化二年に再興がありました。津神社は寛文八年九月に国主の名代の参向が始まっています。志自岐大明神には神輿がなく、国主の代参だけがありました。同じ「神幸」の語の下に、いくつもの形が並んでいます。
著者はこの帳面の性格にも注を付けました。一時期にまとめて書いたものではなく、そのつど書き入れたものらしい。祭神の記載を欠くものがあり、神幸のはじまりの記載を欠くものもある。書き入れた人も一人ではないようだ。だから空欄は「無かった」ではなく「書かれなかった」かもしれない、という読み方をこの節は求めています。
末尾に末社が二つ添えられています。諸吉村八幡浦の寄八幡宮は明和七年八月に神幸の願いがかない、同じ村の芦辺浦の住吉大明神には記事がありません。少なくとも寄八幡宮については、願い出て許されたのだと、この一行から分かります。
原文から
右の五社は昔から絶えることなく神幸があり、神輿のはじまりはわからない。
神社の神幸のはじまりについては資料がなく、また推し量るべき伝説なども残っていないので、中古以前にさかのぼって述べることはできない。
この文書は一定の時期にまとめて記載したものではなく、そのつど書き入れたものらしい。なかには祭神の記載がなく、また神幸のはじまりの記載がないものもある。