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堂の項に写された知行状
渡良村の大泊の上に阿弥陀堂があります。本尊は坐像で長さ八寸七歩、脇に観音と勢至の立像がそれぞれ六寸七分、弘法大師の坐像が七寸七分。堂は巽向きの茅葺で、堂地は竪七間、横六間二尺。古い鰐口を掛ける。ここまでは、この本の堂の項がどこでも書く型どおりの並びです。
型から外れるのは、そのあとでした。堂の記述が終わったところに「大嶋久間又蔵の伝来」という見出しが立ち、知行状の写しが始まります。仏の寸法の続きに、田を宛てがう文書が来る。
一通めは、寛永二年(1625 年)十二月二十八日の日付で、隆信が吉富唯右衛門に宛てたものです。二十石、目録は別紙にあり。文面は二行で終わります。扶助するところであるから、末永く知行せよ、というだけの短い文です。
その別紙にあたる目録の折紙が、そのまま続けて写されています。河北の内として、平ちゃう田が一反五畝十四歩、同じ所が七畝十四歩、しらてが九畝二歩、くそう田が八歩、かみのさきが一畝十六歩、坂口が一畝十八歩と三畝六歩、馬たてが一畝二十二歩、さるまいりが六畝十歩、いちのつぼが九畝十八歩、こみつ川が一反五畝二十六歩。合わせて七反一畝六歩で、それが二十石にあたる、と締めくくられます。
この十一の名前が、この項でいちばん貴重なところです。しらて、くそう田、さるまいり、いちのつぼ。どれも村の正式な地名の帳面には出てこない、耕す人だけが使っていた呼び名です。文書に書き付けられたおかげで、二百年あとの地誌に残りました。
もう一通は、ずっと古い日付でした。永禄十二年(1569 年)五月八日、道可から小佐々善兵衛へ、五反を一か所にまとめて渡すという一筆です。項は最後に、この二家はいずれも動かないでいるが、本紙はあっても、久しく知行は無い、と書き添えます。
紙だけが残って、宛てがわれた田はもう無い。それでも家は写しを取っておき、地誌の撰者が村を回ったとき、堂の項のついでにそれを見せた。堂の寸法と、失効した証文と、耕地の小名が、こうして同じ一項に並んでいます。
原文から
本尊坐像 長八寸七歩。脇士 観音・勢至 各立像 長六寸七分。弘法大師坐像 長七寸七分。
扶助せしむる所、永く知行すべき者なり。よって件のごとし。
以上。右合わせて七反一畝六歩。右の所は二十石なり。
五反、一所に付け遣し候。よって一筆件のごとし。