このページの更新 10/16 16:05
人が作ったのではない石橋
新庄村の片山に、馬背山と呼ぶ山があります。うまのせ、と読む。幕末の地誌はこの山を項に立てて、まず山の中にある橋の話から始めました。
檜の茂った山の中に、東西に渡れる石の橋がある。天工のなすところであって、人が作ったものではない、と地誌は書きます。天工というのは、自然のはたらきという意味です。ふつう地誌が橋を書くときは、誰がいつ架けたか、石か木かを記します。この橋には架けた人がいないので、代わりに、人作ではないと断る一行が要りました。
寸法は二本の柱として測られています。西の柱は南北三尺、周り三間。東の柱は高さが一丈四尺余りあり、南北二尺、周りは三間二尺余り。いずれも地面から出ている部分を測った数だと、地誌はことわっています。
二本の柱のあいだは一尺五寸だけ空いている。それだけなら、またげば済む幅です。ところが東側は高さ二十間余りの崖になっていて、その下を川が流れていました。だから誰でも身の毛がよだって、渡る者は稀である、と地誌は書きます。幅ではなく、下にあるものが人を止めていました。
里ではこれを「二の石橋」と呼んでいたそうです。二番めの石橋、という意味で、括弧の中に、八幡崎の石橋に次ぐのだ、と説明が入ります。島の中に同じ種類のものがいくつかあって、そのうち何番めかで呼ぶ。順位そのものが名前になっている呼び方です。
そのあたりには大きな石が多く、乗り越しが一百間ばかり、竪が一百二十間ばかり、横が四十五間ばかりの檜山があって、そこを「二石橋山」と呼ぶとも書かれます。橋の名が、まわりの山の名に広がっていったことになります。
項の終わりで、ようやく山そのものの名に戻りました。南にも大石が多く、その中に馬の背のような所がある。だから「馬背」の名を負わせたのだ、と。名の付き方が、一つの項の中に二重に書かれています。橋は島の中の順位で呼ばれ、山は形で呼ばれた。どちらも、誰かが名づけた日のことは分かりません。
原文から
この檜山の中に東西に往来する石橋あり。天工のなす所なり。人作にあらず。
その間一尺五寸にすきすといへとも、東は高二十間余の岸にして、その下に川流あり。ゆえに皆、人身の毛も竪て、渡ること稀なり。
俗に「二の石橋」となむいひ伝へける。
また南に大石多し。ゆえに「馬背」の名を負わせたり。その中に馬の背のごとき所あり。