今日の壱岐ikijima.com

このページの更新 10/16 16:05

島を治める人が入れ替わる

国造から守護へ、そして平戸へ。誰がこの島を預かるかは千数百年のあいだ移り変わりました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

『壱岐名勝図誌』の第一巻には「国司の来由」という項があります。この島を誰が預かってきたかを、古書から拾って並べた一節です。撰者はまず、国に司を置くのは成務天皇四年に国造を定めたのがはじまりだと書きます。壱岐については『国造本紀』を引きます。伊吉島造は磐余玉穂朝の石井に従った者で、新羅の海辺の人を伐った、天津水凝の後の上毛布直を造とする、という一文です。撰者はこれ以上の説明を付けていません。

ただし撰者は、それより前にもあったはずだと考えていました。饒速日命が天降ったときに供奉した神のなかに、天月神命が壱岐県主らの祖として見えるからです。名前の記録が残る最初の国造よりも、島に人を置いた記憶のほうが古い、という読み方です。

律令の下では、壱岐は下国に数えられました。下国には介がなく、守・掾・目の三官だけが置かれます。壱岐守は従六位下に相当し、その受け持ちは細かく決まっていました。社の祭祀、戸口と帳簿、農桑の勧め、訴訟、租調、倉庫、兵士と武具、駅と伝馬、烽火、関と渡し、寺と僧尼の名簿。そのうえで防人と、外から来た者の帰化までを束ねます。下国に置かれる三人の官の受け持ちに、これだけの仕事が載っていました。

名前の残る人も何人かいます。神護景雲三年(769 年)に田部直恩磨が壱岐島守になりました。天長五年(828 年)には壱岐直才磨が壱岐国造に任じられています。うまくいかなかった記録もあります。宝亀三年(772 年)、掾の上村主黒縄らが対馬へ年の食糧を送る途中で逆風に遭い、船が壊れて人が沈み、積んでいた穀をすべて流しました。大宰府はそれを都へ報告しています。

寛仁三年(1019 年)には、島を預かる者が殺されました。刀伊の賊が五十余艘で襲来し、壱岐島を奪って守の藤原理忠を討ち、人を捕らえて筑前まで進んだ、と『日本紀略』にあります。大宰府から早馬が都へ走った記事です。

文治元年(1185 年)に諸国へ守護が置かれてから、島の治め方は二重になります。公家から任じられるのが国司、武家から置かれるのが守護で、どちらも領主ではなく政務を執るだけの役でした。承久元年(1219 年)の軍功で武藤資頼が筑後守と大宰少弐に任じられ、嘉禄元年に三前二島の守護職となりました。その子孫は少弐を家号として、この島を管下に置きます。

中世の終わりには、島は五人の武士に分けて治められていました。志佐・佐志・呼子・鴨打・塩津留で、いずれも肥前の人です。文明年間に上松浦の波多泰が湯岳村で五氏と戦ってこれを破り、島を一つにまとめました。その戸城の跡が古戦場として残っている、と撰者は割注に書いています。

波多家も長くは続きません。弘治元年(1555 年)、壱岐の人が主の隆を殺しました。永禄六年(1563 年)、老臣の日高喜が島と上松浦を松浦隆信に付けます。永禄十年(1567 年)ごろ、喜は平戸から壱岐国守護代に任じられました。ここで島は平戸の領国になり、幕末までそのまま続きます。

この項の末尾は、平戸の松浦家をたたえる長い文で閉じられています。撰者の後藤正恒は平戸領の壱岐で神職を勤めた人であり、この地誌そのものが藩の命で編まれたものでした。誰が島を預かるかを書き継いだ末尾に、いま預かっている家への言葉が置かれているのは、そういう本だからです。

原文から

伊吉島造は磐余玉穂朝の石井に従った者で、新羅の海辺の人を伐った。天津水凝の後、上毛布直を造とする。

巻之一 事実伝説(『国造本紀』)

刀伊国の賊が五十余艘で起こり来て、壱岐島を虜にし、守の藤原理忠を殺害し、ならびに人民を虜にして、筑前国怡土郡に来ている。

巻之一 事実伝説(『日本紀略』寛仁三年四月十七日)

壱岐島の掾、従六位上の上村主黒縄らが、年粮を対馬島に送った。逆風に遭って船が破れ人が没し、載せていた穀をすべて漂失した。

巻之一 事実伝説(光仁天皇宝亀三年十二月の条)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之一 事実伝説/ 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 序。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

この話に出てくる場所

出典: 各スポットのページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 10/16 16:05

ほかの読み物: 瀬戸浦は古戦場である / 弩は百あるが扱う者がいない

読み物の一覧へ戻る / 壱岐島とは / 神社

あそぶ