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弩は百あるが扱う者がいない
防人と烽火が壱岐に置かれた経緯は、この島の話としてよく知られています。あまり知られていないのは、その武器を誰が扱っていたのかという話のほうです。『壱岐名勝図誌』の第一巻には、それが公文書のかたちで一件だけ残っています。
承和五年(838 年)の太政官符に、壱岐島から上がった申し状が引かれています。この島に置いてある武器は弩である。それが百脚もあるのに、機を調える人がいない。だから非常に備えがたい。いま新羅の商人の往来が絶えず、警固のことは片時も忘れてはならない。ついては書記官である史生を一人減らし、その枠で弩師を置かせてほしい。大宰府が調べたうえで筋が通ると認め、右大臣の宣によって許されました。
弩は機、つまり仕掛けを持つ弓です。置いておくだけでは戦えません。百脚という数は、島の守りとしては十分に見えます。それでも、調整できる人が一人もいないなら数は意味を持たない。装備はあるが人がいない、という訴えが、九世紀の役所の文書としてそのまま残っています。
弩師の任期も決められていました。元慶二年(878 年)の格に、弩師が置かれるのは辺要からはじまり、陸奥・出羽・大宰府および壱岐・対馬はみな五年を限る、とあります。この島は、弩を置く場所として制度の側から名指しされていました。
武器そのものの補充の記録もあります。貞観十二年(870 年)正月、朝廷は壱岐島に胄と平胡簶をそれぞれ二百具ずつ充てました。理由が書かれています。この島にはもともと甲はあったが胄がなかった。大宰府が島の申し出を受けて充てるよう請うたので、それに従った、というのです。何が足りないかを島が数え、府が取り次ぎ、都が送る。同じ手順が武器の側でも動いていました。
同じ年の六月には、別のかたちの緊張が記録されています。肥前国杵島郡の兵庫が震動して鼓が二声鳴った、これを占うと隣国の兵を警戒すべきと出た、という大宰府の報告を受けて、朝廷は筑前・肥前・壱岐・対馬に不慮の事態を戒めさせました。翌 貞観十三年(871 年)正月には、壱岐島の兵庫の鼓が鳴ったと大宰府が報じています。武器庫の鼓が鳴ることが、そのまま国の記録に載る時代でした。
幕末に実際に働いていた見張りは、『郡鑑』から引かれます。岳の辻の遠見番所です。岳の高さは九十五間一尺五寸、武生水村の庄屋所からの道のりは十七町二十八間。番頭の侍が一人、足軽が二人、常に勤番して非常に備えていました。若宮島にも同じ役が置かれ、武具と番船がありました。
九世紀に扱える人のいなかった弩から、幕末に三人が交代で詰めていた岳の辻の番所まで、島の守りの記録はいつも人数の話です。何を置くかではなく、誰が何人そこにいるか。壱岐の記録が繰り返し書き留めているのは、そちらのほうでした。
原文から
この島に設けるところの器仗は弩である。百脚ありながら、機を調える人がない。非常に備えがたい。いま新羅の商人の往来が絶えない。警固の事はしばらくも忘れてはならない。望み請うらくは、史生一員を廃して弩師を置きたい。
弩師の興ることは辺要よりはじまる。陸奥・出羽・大宰府および壱岐・対馬はみな五年をかぎる。
岳の辻の遠見番所は、岳の高さ九十五間一尺五寸、武生水村の庄屋所より行程十七町二十八間。この番所は番頭の侍一人、足軽二人、常に勤番して非常に備える。