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このページの更新 10/16 16:05

弩は百あるが扱う者がいない

承和五年、壱岐は書記官を一人減らして弩の技術者を置いてほしいと大宰府へ願い出ました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

防人と烽火が壱岐に置かれた経緯は、この島の話としてよく知られています。あまり知られていないのは、その武器を誰が扱っていたのかという話のほうです。『壱岐名勝図誌』の第一巻には、それが公文書のかたちで一件だけ残っています。

承和五年(838 年)の太政官符に、壱岐島から上がった申し状が引かれています。この島に置いてある武器は弩である。それが百脚もあるのに、機を調える人がいない。だから非常に備えがたい。いま新羅の商人の往来が絶えず、警固のことは片時も忘れてはならない。ついては書記官である史生を一人減らし、その枠で弩師を置かせてほしい。大宰府が調べたうえで筋が通ると認め、右大臣の宣によって許されました。

弩は機、つまり仕掛けを持つ弓です。置いておくだけでは戦えません。百脚という数は、島の守りとしては十分に見えます。それでも、調整できる人が一人もいないなら数は意味を持たない。装備はあるが人がいない、という訴えが、九世紀の役所の文書としてそのまま残っています。

弩師の任期も決められていました。元慶二年(878 年)の格に、弩師が置かれるのは辺要からはじまり、陸奥・出羽・大宰府および壱岐・対馬はみな五年を限る、とあります。この島は、弩を置く場所として制度の側から名指しされていました。

武器そのものの補充の記録もあります。貞観十二年(870 年)正月、朝廷は壱岐島に胄と平胡簶をそれぞれ二百具ずつ充てました。理由が書かれています。この島にはもともと甲はあったが胄がなかった。大宰府が島の申し出を受けて充てるよう請うたので、それに従った、というのです。何が足りないかを島が数え、府が取り次ぎ、都が送る。同じ手順が武器の側でも動いていました。

同じ年の六月には、別のかたちの緊張が記録されています。肥前国杵島郡の兵庫が震動して鼓が二声鳴った、これを占うと隣国の兵を警戒すべきと出た、という大宰府の報告を受けて、朝廷は筑前・肥前・壱岐・対馬に不慮の事態を戒めさせました。翌 貞観十三年(871 年)正月には、壱岐島の兵庫の鼓が鳴ったと大宰府が報じています。武器庫の鼓が鳴ることが、そのまま国の記録に載る時代でした。

幕末に実際に働いていた見張りは、『郡鑑』から引かれます。岳の辻の遠見番所です。岳の高さは九十五間一尺五寸、武生水村の庄屋所からの道のりは十七町二十八間。番頭の侍が一人、足軽が二人、常に勤番して非常に備えていました。若宮島にも同じ役が置かれ、武具と番船がありました。

九世紀に扱える人のいなかった弩から、幕末に三人が交代で詰めていた岳の辻の番所まで、島の守りの記録はいつも人数の話です。何を置くかではなく、誰が何人そこにいるか。壱岐の記録が繰り返し書き留めているのは、そちらのほうでした。

原文から

この島に設けるところの器仗は弩である。百脚ありながら、機を調える人がない。非常に備えがたい。いま新羅の商人の往来が絶えない。警固の事はしばらくも忘れてはならない。望み請うらくは、史生一員を廃して弩師を置きたい。

巻之一 事実伝説(『類聚三代格』承和五年 太政官符)

弩師の興ることは辺要よりはじまる。陸奥・出羽・大宰府および壱岐・対馬はみな五年をかぎる。

巻之一 事実伝説(元慶二年二月三日、弩師の秩限を定める格)

岳の辻の遠見番所は、岳の高さ九十五間一尺五寸、武生水村の庄屋所より行程十七町二十八間。この番所は番頭の侍一人、足軽二人、常に勤番して非常に備える。

巻之一 事実伝説(『郡鑑』)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之一 事実伝説。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

この話に出てくる場所

出典: 各スポットのページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 10/16 16:05

ほかの読み物: 蒙古のあとに配られた七百町 / 神輿が動きはじめた年

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