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瀬戸浦は古戦場である
幕末の瀬戸浦は、二百十四戸・八百九十人の浦でした。芦辺浦とは海を隔てて向かい合っていて、船路で十一町ほどしかありません。『壱岐名勝図誌』の巻之二十五は、この浦の戸数と船の数を並べたあとで、名前の由来に入ります。
『風土記』によれば、むかしは立上の崎を回って平江・海老川を経て、中崎のあたりまで船が入る所だったので「瀬戸」と名づけたのだろう、といいます。ここに割注が付き、正恒の考えが記されました。浦口の海中に子持瀬・孫太瀬・打釣瀬などの瀬があるのだから、その瀬によって「瀬戸」と書くのもかなっている。けれども平江から中崎まで船が入る所だという理由なら「迫門」の意味だろう。なお考えるべきである、と。地名の字を決めきらずに残しています。
この浦には、もう一つの顔があります。『歴代鎮西要略』巻三から、弘安四年(1281 年)の戦いの記事が引かれるのです。蒙古の大軍が壱岐・対馬・松浦・平戸・筑前の北の海に襲来した。七月二日、松浦党・彼杵・千葉・高木・竜造寺らが数万の兵で壱岐島の瀬戸浦で戦った。はじめは勝って勢いに乗ったが、異賊が船の上の高楼に登って火矢と鉄炮を放ち、大いに防いだ。味方はそのために砕かれ、死傷する者が出た。ここが戦場だったと、漢文の記録が名指ししています。
撰者はそこで、記録と目の前の地形を突き合わせます。瀬戸浦の北西、平江の南西にあって「唐人塚」と言い伝えられているものは、あのときの蒙古人の塚だろう。むかしは平江まで賊船が必ず乗り入れたと見える地形なのだから、と。書物の記事を、歩いて見た土地の上に置き直しています。
戸数の移り変わりも、その読みの材料になりました。この浦の家ははじめ三戸だったと言い伝えるが、『海東諸国記』にも三十余戸と記されている。嘉吉のころですらそうなのだから、三戸というのはそれよりずっと前のことだろう。とすれば弘安のころにも家はあったはずで、兵乱で多くが亡んだのだろう。その後 嘉吉のころに三十余戸となり、慶長からは人が増えて、いまは二百十余戸になった。町の小名は崎川・竪町・神小路・中浦・岩崎・しやうつの坂・西浦である、と続きます。
同じ巻の少し先に、船匿城の項があります。村の東南にあり、いつ誰が築いたのかは分からない。東は木場に境し、西は美濃谷に続き、南は海に臨んで岸が高い。沢辺に射場があり、海中に船囲がある。ここでもう一度、正恒の按が入ります。この城は文永のころの守護代 平内左衛門尉経高の居城だろう、というのです。
根拠として挙げられるのは、文永十一年(1274 年)の記録です。島の西側に蒙古の賊船四百余艘が着き、そのうち四百余人が上陸した。経高と御家人百余騎が出陣し、庄三郎の城、いまの新城村の前で矢合わせをした。蒙古人の射た矢で御家人二人が傷を負い、相手が大勢では叶わないと、経高は城内へ引いて自害したという説がある。
そのうえで、二度の来襲が結び直されます。七年後の弘安四年に蒙古が瀬戸浦へ来たのは、文永のときに新庄の城で経高が自害したことを知らず、守護代の居城のある津をめざしたからではないか。城の位置と、二つの戦いの間隔と、記録に出てくる浦の名。それだけを手がかりに、撰者は幕末の島で元寇の道筋を引き直そうとしていました。
原文から
七月二日、松浦党・彼杵・千葉・高木・竜造寺らが数万の兵をもって壱岐島の瀬戸浦において相戦う。先には克ちて勝ちに乗るも、異賊が舸上の高楼に登って火箭・鉄炮を放ち、大いに禦となす。我が兵はこれがために砕かれ、死創する者が若干なり。
瀬戸浦の乾、平江の坤にある「唐人塚」と言い伝えるものは、かの弘安度の蒙古人の塚ならむと思わるるなり。昔時は平江までは、必ず賊舩が乗り入れたりけむと見えたりける地理なればなり。
当城は文永のころ、守護代 平内左衛門尉 経高の居城ならむ。