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山鉾を作る三つの組
武生水村の巻に、祭礼の山鉾のことだけを書いた項があります。始まった年がはっきり書かれているのが、この項の特徴です。寛延三年(1750 年)から祭礼の山鉾を作りはじめた、と。それ以来だんだんに賑わってきた、と続きます。
作る側の分け方も書いてあります。浦の中を三つに分ける。一つめは築町のうちの上町と下る町。二つめは同じ町のうちの十八軒町・亀川町・迎町。三つめは本居浦・西組町・築出町です。この三つの組が祇園の祭を勤め、祭礼一式を受け持ちました。町名を並べただけの一文ですが、どの町がどの組に入るかまで決まっていたことが分かります。
祭の費用の出どころも記されています。社領の畠が十四町一反九畝二十五歩、高にして百石七斗八合。これを祭礼の料に当てる、と。祭を賄う田畑の広さが、祭の作法と同じ項に並んでいます。
山鉾そのものの作りは、材から順に書かれます。八木で高く台をこしらえ、車を付ける。周りを紙で張って、さまざまな山の形をかたどる。上には人形のようなものを据えて衣服と甲冑を着せ、あるいは兵杖を持たせ、旗や幟を立てて、それを引いて歩く。紙で張った山の上に武者を載せて町を回る、という姿がそのまま写されています。
そのあとに、撰者の評が置かれます。京の祇園会にくらべれば形ばかりのものだけれども、都と違って年ごとに変わった趣向を作り変えるので、その作りようがそろっていないところが、かえって面白い、と。都のものに及ばないと認めたうえで、及ばないことから来る面白さのほうを書いています。地方の祭を都と比べる文としては、めずらしい落としどころです。
変わるのは形だけではありませんでした。歌なども、その年に作った山の趣向によって年ごとに変わった、と書かれます。組ごとに毎年ちがう山を作り、それに合わせて歌まで作り替えていたことになります。
祭の日どりも記されています。十四日の夜は社頭で大神楽。十五日は山を供えたあと、神輿を飾って下る町の旅所へ渡し、帰りは夷本から本居浜まで船で還る。国じゅうの人が集まった、と締めくくられます。始めた年と、費用と、組分けと、作り方と、日どり。祭の一つを支えるのに要ることが、この短い項に一通り並んでいます。
原文から
寛延三年より始めて祭礼の山鉾を造る。
その様は八木にて高く台をこしらえ、車を附け、周りを紙にて張り、さまざまの山形をもやうし、上に八人形やうの物をすえて衣服甲冑を着せ、あるいは兵杖をもたせ、旗幟などさまざまとして、これを昇せてありくなり。
京師の祇園会にくらぶれば、ただ形ばかりなれども、皇都にかわりて年々に異様なるもようを作りかえて、その製もしからざるはまたおかしき様なり。
歌いなども、その作り山のもようによりて、年々にかわれり。